ノート:松平家元

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
  • 「朝野旧聞褒藁」に慶長7年死没説はないので削除しました。まず出典となる書籍をご自分で確認することをお願いします(汲古書院『朝野旧聞褒藁』12巻410から411項)。
  • 「慶長4年に病死したともいわれている」のは何においてでしょうか。「法蔵寺」には彼の墓所はなく、また墓所が不明であることが彼の存在を疑う一つの理由となっていることに留意してください(前掲書411項按文)。復活させる場合にはその出典をお願いします。
  • 「関連人物」の松平忠政のリンクは大須賀康高の養子となった「忠政」にリダイレクトされているので削除しました。
  • 「従五位下、右京大夫」との記述は勘六「忠政」についていわれていることです(「寛政譜」1巻221項按文)。それゆえ削除しました。もし勘六「忠政」について書くのならば、十分準備を整えて執筆をお願いします。典拠が不明確であったり、出典となる記述を読み誤った記事を、これ以上増やさないようにお願いします。ちなみに勘六「忠政」については「寛政譜」において広忠庶子説が紹介されていますが、これを長沢松平とするのは、松平広忠の項の記述を誤読されたものと考えます。「寛政譜」をじっくりとお読みください。勘六忠政を父祖として呈譜した家が長沢家支流ではないかとの説を述べているのであって(新訂1巻222項)、忠政そのものを長沢であるなどと主張してはいません。そもそも同書では彼の存在を認めていないので、その人物についてその出自を特定することはありえないのです。また存在を認めないことと、その存在を否定することとは同じではないことにも注意してください。
  • 「徳川幕府家譜」「朝野旧聞褒藁」などにリンクが付されていましたが、wikiの現状からみて書誌に関しての項目執筆は望み薄であると考えます。まず自分で執筆する用意が整ってからリンクを貼れば済むことと考えます。
  • 「家元」にかんしてあるのは松平康元との「同一人物説」ではないことは利用者‐会話:210.156.127.21で紹介したとうりです。内藤信成については論外です。全面的に書き換えをしました。210.156.127.21 2006年12月23日 (土) 02:04 (UTC)[返信]