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ノート:林通政

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林左近駿河守通政、父は林通忠、母は岩手弾正秀重の女で土岐芸頼の乳母なり、入道して道慶と称す。 室は大橋源左衛門平重女(後醍醐帝九代目、津島市大龍寺蔵書)美濃土岐左京太夫頼芸の近臣、はじめは武儀郡山中城に住み、享禄三年正月、土岐執権長井藤左衛門尉長張(弘)死後執権職となり、政務執行上、天文の頃厚見郡革手領下村に屋敷を構えて住む。 土岐頼芸没落の後、斎藤道三の頼みにより、道三に仕え、弘治二年四月斎藤道三と、義龍との異父子合戦の時、道三の旗大将として、一族あい別れて戦い、岐阜山の乾なる鶴山城に籠もり、同月二十日五十六歳で討ち死にす。弟通長も道三に仕え、道三死後本巣郡郷戸に蟄居する。通政長男正通、天文十六年八月山県郡大桑落城まで、頼芸に従い、主人見失い心ならずも道三に従う、河村図書と頼芸追撃命令を受けるが、途中より追撃をやめ、逃亡させた。通政二男政三は、通政の長兄正長の養子となり、政基・正成・正継・女子・源助・五郎左衛門を生み、正成は斎藤福を娶り、福は春日局となる。                                        美濃国諸家系譜より