ノート:梶井基次郎

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「生涯」は『新潮日本文学アルバム』の年譜をベースに、同書の略伝、新潮文庫解説などの文章を入れて膨らませたような書き方がされているようです。単純な事実の記述には著作権は認められませんが、「浜で泳ぎ、磯で遊び、裏山の神社や城跡を駆けめぐる健康な少年時代」「中学時代の友人らの下宿を廻り、レコードをかけヴァイオリンを鳴らし、オペラの楽譜を見ながら歌うなどして過ごす」「遊興を重ねては後悔し、自我の確立を願う」など創作性のある表現までそのまま使用されている部分が散見され、著作権的に問題がありそうに思えます。伝記的な記述もかなりアルバムの年譜そのままの部分も多く、事実の列挙とはいえ危うい感じもします。年譜をベースにして膨らませる、という書き方にそもそも問題があると感じます。伝記ですから時系列的な記述になるのは当たり前ですが、細かい事実の羅列からなる年譜をベースにすると「伝記」としての文章の自然な流れができません。注意喚起と修正の呼びかけを行うために{{年譜のみの経歴}}を貼っておきます。--続続頭痛会話2014年7月22日 (火) 12:47 (UTC)[返信]

年譜について[編集]

私、梶井基次郎全集の第六刷を所有しておりますが、どうもその年譜とこの記事内の年譜との間に誤差が生じているようです。こちらの年譜を書かれた方がもし現在も活動中でしたら、どのような資料を用いて作成したがご連絡ください。一部だけしか確認しておりませんが、例としては

1909年父の東京転勤は全集によれば1908年
1916年奉公に出るは全集によれば1915年
1917年中学復帰は全集によれば1916年
父の知人の娘に思いを寄せて手紙を書いたのが1918年になっているが全集では1919年

以上のように微妙な誤差が生じています。ご連絡のほどをお待ちした上で、資料を突き合わせ、正確なものを採用するようにしていきたいと思います。--Hideokun会話2016年5月18日 (水) 12:08 (UTC)[返信]


Hideokunさん、こんにちは。私は手持ちの2008年(第9刷)の鈴木貞美編『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』の方を主体にして書きました。全集(1966年の出版)の方は図書室で借りたのですが、これが何刷だったかまでは、もう一度見てみないと解らないのでまた確認してみます。

『新潮日本文学アルバム』における、問題個所の年譜や本文の説明をそのまま引用すると、以下のようなものになっております。

  • 明治42年(1909年) 8歳:12月、父が安田商事合名会社東京本社へ転勤、一家は上京して、芝区二本榎西町に移る。
    • 明治42年、基次郎が満で8歳の冬、父が東京本社に移り、一家は芝区二本榎の、泉岳寺を見下ろす高台の狭い貸家に身を寄せた。
  • 大正5年(1916年) 15歳:3月、高等小学校を終えた順三が奉公に出される。成績上位で3年生を終了後、退学して筋向かいのメリヤス問屋の丁稚となる。
    • 3年生が終わったとき、内に秘めた道義心と、思いきったことをしでかす性格を示す事件を起こした。鳥羽とときから一家にひきとられていた異母弟が奉公に出されたのに同情し、自分も商店に丁稚に出てしまったのである。1年近く勤めたのち、母親の強い勧めもあって、ようやく復学した。
  • 大正6年(1917年) 16歳:4月、北野中学4年生に再入学。同校の美少年に惹かれる。
  • 大正7年(1918年) 17歳:5年生の1学期に寝込む。
    • 5年生の1学期に寝込んだ。すでに結核性の病だったという。(中略)そして初恋、父親の知人の娘に、美しい女学生がいた。それ以前、同じ中学の美少年に、ちょっとした稚児趣味をみせてはいたが、この少女に次第に思いを寄せるようになっていく。
  • 大正8年(1919年) 18歳:3月、成績中位で北野中学卒業。この年兄が卒業した大阪高等工業学校を受験、失敗。父の知人の娘で、高等女学校3年生の美少女に憧れ、友人や兄に恋の気持を訴える。
    • 基次郎は、初恋の告白を、一途でそして大仰な調子の文章で友だちに宛てつづっている。(中略)受験に失敗したのちの手紙である。

美少女への思いを友人に送った年は1919年のことでした。これを前年の方に含めてしまったのは私のミスなので直しておきます。その他については間違いなく『新潮日本文学アルバム』に準じていますので、大丈夫だと思いますが・・・。念のため、また他の文献もあたってみます。それと、この記事についても今度、出典のページ数をいれ、各文に脚注を丁寧に付けようと思っていますので、その際にも総合的に再確認いたします。--みしまるもも会話) 2016年5月19日 (木) 01:33 (UTC) 付記--みしまるもも会話2016年5月19日 (木) 02:01 (UTC)[返信]

みしまるももさんお返事ありがとうございます。なるほど、新潮社ではそうなっているんですね。私の方では中央公論社の『日本の文学第36巻瀧井孝作・梶井基次郎・中島敦』及び筑摩書房の『現代日本文學大系第63巻梶井基次郎・外村繁・中島敦』で今、確認したのですが、東京転勤はやはり1908年になっています。奉公に出たのも1915年、中学に復帰したのは1916年となっていました。全集と現代日本文學大系の両本は筑摩書房より出ているものですから、同じなのはよしとして、中央公論社でも差異が生じているようです。一度、確認した方がいいのかもしれません。場合によっては全集には日記や書簡が掲載されていますのでそこも合わせて確認した方がいいかもしれません。私の方でも手に入るようでしたら新潮社のものを確認したいと思います。--Hideokun会話2016年5月19日 (木) 11:23 (UTC)[返信]
Hideokunさん、ありがとうございます。私が見た全集は第20刷(1985年発行)で、これもHideokunさんのものと同じです。岩波文庫『檸檬・冬の日』の年譜も全集を踏襲していました。習作『不幸』を読むと、父親が東京転勤し半月くらいの時期が「明治の年号が大正に改まる二三年前。師走の下旬」、基次郎らしき人物は「尋常三年」で、正月で「十歳になった」(数え年)とされています。
基次郎は1907年(明治40年)に小学校に入学し、3年生(数え年9歳)は1909年(明治42年)なので、鈴木貞美は『新潮アルバム』のような判断をしたと思われます。今度、大谷晃一の『評伝 梶井基次郎』も見てみますが、とりあえずは一点目についての鈴木貞美の推察の根拠と思われるものを考えてみました。--みしまるもも会話2016年5月20日 (金) 06:59 (UTC)[返信]
 追記 基次郎の日記は、1920年(大正9年)以降のものしか載っていませんね・・・。大谷晃一の『評伝 梶井基次郎』(2002年発行。原本は1978年)を見たら、大谷も鈴木の『新潮アルバム』の年譜と同じ見解でした。この評伝はかなり多くの参考文献が巻末に載っており、総合的に判断して書いているようなので一応信頼性が高いものと思われます。念のため、また他の人の調べた評伝も当たってみたいと思います。--みしまるもも会話2016年5月23日 (月) 01:44 (UTC)[返信]
ご連絡ありがとうございます。ふーむ、色々と難しいところですねぇ・・・。私の方では三高時代の親友である外村繁の資料を多く所蔵していることから三高時代以降は確認しましたが、三高時代以降の年譜は正しいようです。(他にも同級生である浅見淵や中谷孝雄なども当る価値があるかもしれません)梶井基次郎関係で様々な文章を書いている三好達治も参考になるかもしれません。(もっとも三高時代以降になるのであまり意味がないかもしれませんが・・・)あと私の所有している全集は昭和46年のものであるため、最新版のように別巻が付いていません。別巻付きのものだと確か様々な作家や識者による評伝がついていたように記憶しています。こちらも当る価値があると思います。ただ、私の方は仕事が忙しいため、まだ新潮社と沖積舎のものは確認できていませんのでなんとも言えませんが、一度、それぞれの資料による年譜を表にして確認した方がいいかもしれません。--Hideokun会話2016年5月23日 (月) 11:38 (UTC)[返信]

Hideokunさん、お忙しい中どうもありがとうございます。最新版の全集別巻(2000年)について調べたところ、これは鈴木貞美の編纂のようです([1])。おそらく、そこの年譜も『新潮アルバム』と同じだと思いますが、今度確認してみます。--みしまるもも会話2016年5月24日 (火) 04:25 (UTC)[返信]

 追記 最新版の別巻の年譜も、『新潮アルバム』の年譜と同じ見解でした。これは長年にわたり詳細に資料を調査した大谷晃一や安藤公夫の書いた評伝を元に作成されたものだということですので、この別巻と大谷晃一の本をベースに総合的に見ていこうと思っています。少しずつサンドボックスでやっていきますので、Hideokunさんも、お時間のあるときに時々覗いてみてください。もしまた何かお気づきのことがあれば、ご意見承ります。他に川端康成とかの記事整理も並行しているので、完成はまだだいぶ先のことになるかもしれませんが、長い目で見守っていただければ幸いです。よろしくお願いします。--みしまるもも会話2016年5月27日 (金) 07:10 (UTC)[返信]

大幅加筆作業が一応終了いたしましたので、お知らせしておきます。--みしまるもも会話2016年7月8日 (金) 06:28 (UTC)[返信]