ノート:法華経

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「大乗非仏説」説の扱いについて[編集]

偽作説という呼称ですが、法華経自体は成立経緯が如何にせよ実在し多くの系列宗派で取り扱われる教典なのですし、弟子や継承者が師の教えを継承発展させていくことは教団においてはごく普通の行為であるのですから、釈迦の直接教義でないから「偽物」というような呼称は行き過ぎと思い、呼称を疑問型の言葉に変更させて戴きました。--219.105.199.37 2004年8月14日 (土) 18:16

「法華経」そのものの説明からはなれ、「大乗非仏説」説が長々と記述されていますが、大乗非仏説の記事にではなく、「法華経」の記事中に存在する意義が不明。大乗非仏説に移動すべきと考えます。--Dalaibaatur 2005年8月25日 (木) 04:25 (UTC)[返信]
移動いたしました。--Dalaibaatur 2005年9月1日 (木) 06:24 (UTC)[返信]

大衆部に関する誤解[編集]

本文に在家大衆部という文言がありますが、大衆部とは部派仏教の一派であって、当然ながら出家者の教団です。 また、現在では初期の大乗仏典創作者が大衆部そのものであるとの説は否定されております。--以上の署名のないコメントは、219.94.222.234会話/Whois)さんが 2007年6月21日 (木) 13:32(UTC) に投稿したものです。

日蓮教学に基づく法華経の解釈記述について[編集]

日蓮教学に偏った記述は百科辞典的でありません。 2008年1月29日 (火) 14:16 (UTC)[返信]

麓さんの意見に賛成。現在の記述内容にはまだ改善点もあり、宗派間の見解の相違を記述することもある程度必要かと思いますが、明らかに特定の教学や一方的な見方に基づいた編集記述は恣意的なものでしかありません。--Boca samba 2008年1月29日 (火) 14:35 (UTC)[返信]
  • 麓さんの意見に反対します。法華経の説明は法華経の経文に任せるべきではないでしょうか。ここは法華経の項目です。もし百科事典としてwikipediaを完成させたいのでしたら、般若心経か大乗非仏説の項目で、論を展開してください。わたしは法華経の経文に任せてここで説明文を書きます。--以上の署名のないコメントは、Leo masaaki会話投稿記録)さんが 2008年1月29日 (火) 14:47(UTC) に投稿したものです。
  • なぜ天台大師のみに敬称を用いるのか疑問です。伝教大師・日蓮大聖人にも敬称はつけるべきではないでしょうか。--Leo masaaki 2008年1月29日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
  • そもそも、Wikipediaは特定の宗派教学に偏らないので、敬称は誰彼に限らずまったく必要ありません。したがって天台大師も智顗とするのが正しい記述です(改訂済)。また法華経の記述も経文だけに任せるのなら、日蓮及びその流派の解釈による記述も必要がないことなります。仏教学、法華経を所依としない宗派、天台宗、日蓮宗各派、日蓮正宗などの富士門流の解釈の違いなどが分かれるにせよ、世間的に広く認められていない一部の宗派上の解釈からの記述は控え、あくまでも公平な視点からの記述を心掛けて下さるようお願い申し上げます。--Boca samba 2008年2月16日 (土) 05:46 (UTC)[返信]
  • Boca氏の主張を拝借しますと、智顗は出世した後に天台大師と号し、また周囲からもそう呼ばれているので、特定の宗派に偏らない客観事実を重視するならば、なおさら敬称を用いるべきではないでしょうか。--Leo masaaki 2008年2月17日 (日) 15:02 (UTC)[返信]

偏った視点について[編集]

法華経の項目は法華経の経文に任すべきではないでしょうか。 大乗非仏説は法華経には無いので大乗非仏説に移してください。 またBCで説明するのもキリスト教という特定の宗派の教義に基づいていないでしょうか。 般若心経を持ち出すのも理解しかねます。 わたしが編集した部分は法華経本文より引用しています。--Leo masaaki 2008年1月29日 (火) 14:21 (UTC)[返信]

法華経を依経とする教団の立場でならLeo masaakiさんの考えが正しいと思いますが、公正な立場を旨とするWikipediaの記述としては誤りと断言します。Wikipediaの規則を確認してください。 2008年1月30日 (水) 11:36 (UTC)[返信]
wikipediaとは、法華経を説明する項目で、法華経を完全否定するということでしょうか。これは百科事典になっていませんが、経文にこう載っている、ということを削除するとは、法華経の説明を成し得ておらず、公正な立場とは言えないと考えますが、いかがでしょうか。社会的地位云々の文の後に、般若経に読者をすかし取ろうとするような恣意的な文も、偏っていないでしょうか。wikipediaの規則を確認してください。--Leo masaaki 2008年1月31日 (木) 13:36 (UTC)[返信]

最上部の質問にお答えします。

  • 法華経の項目は法華経の経文に任すべきでは?
    上記でも説明していますが、貴殿の理論でいえば、どの宗派の解釈や学問上の記述も必要がなくなります。したがって貴殿の富士門流という立場上の解釈も不要になり、ご自身で自らの発言を否定し言動も矛盾することになります。
  • 経文の解釈はより深く学んでいる立場の解釈が必要です。矛盾はありません。--Leo masaaki 2008年2月16日 (土) 06:14 (UTC)[返信]
  • 大乗非仏説は法華経には無いので大乗非仏説に移すべき
    これはある程度同意します。しかし中立・公平性に基づく見解なら、本項目で簡潔に記載しても問題はありません。
  • 了解しました。--Leo masaaki 2008年2月16日 (土) 06:14 (UTC)[返信]
  • BCで説明するのはキリスト教という特定の宗派教義に基づく
    本項目では世界的な標準に随い西暦だけで記述されているだけです。他の項目では日本の年号も記載される場合もあります。
  • これは、「特定宗派」を強く意識されるかたの偏見を正して欲しいという点で、例示したことで、辞典としてわかりやすさを求めるなら、西暦でも構わないと考えています。--Leo masaaki 2008年2月16日 (土) 06:16 (UTC)[返信]
  • 般若心経を持ち出すのも理解しかねる
    具体的にどの部分かわかりません。
  • これは過去の編集ですので、消去させていただきました。履歴を参照してください。--Leo masaaki 2008年2月16日 (土) 06:14 (UTC)[返信]

ただし法華経を説明する場合、般若経典だけでなく他の経典も適宜引用されることもあり、許容の範囲と考えます。これは法華経に限ったことではありません。 たしかに法華経は尊重されるべきです。しかし絶対的な法華経至上主義という一方的な立場見解からの偏った記述は、公平中立なWikipediaではそぐわないものです。

様々な角度からの見解は恣意的なものではく公平中立に基づき簡潔に記載するならば問題はありません。また執拗な連続投稿や正当な理由のないリバートは荒らしと見なされますのでお控え下さい。--Boca samba 2008年2月16日 (土) 05:46 (UTC)[返信]

  • 後世の人の見解は様々ですが、まず第一に、法華経の経文を優先させることが、法華経の項目としては大事ではないでしょうか。とりあえずですが、現在の酷い記事は、厳密に随時修正していきたいと考えています。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--Leo masaaki 2008年2月16日 (土) 06:14 (UTC)[返信]

追記。人が書いた文章の中にご自身の意見を記述するのは、見にくなるしややこしくなるのでお止めください。ご自身の意見はご自身の記述にまとめてご投稿下さい。なお同じ過ちを何度も繰り替えされるような行為もお慎み下さい。--Boca samba 2008年2月16日 (土) 06:48 (UTC)

貴方の発言は貴方自身の文章内で主張してもらいたいものです。それが道理であり人としてのマナーでしょう。「ご理解とご協力を」とは聞こえはよくても、貴方のやっている行為は、私だけでなく他人に対する配慮のない押し付けでしかありません。他人の助言や忠告を一切受け入れず、自分の主張を押し通して反省思惟しない人が仏教を語る資格はありません。なぜ素直になれませんか?ご自身の発言が正しいと思われるのは勝手ですが、それは決して他の方々の賛同を得られたものではありません。またこれらの行為により、貴方が遵奉される教えが多くの方々に反って不信感を与え理解を得られなくなる事もご考慮された方が賢明かと存じます。貴殿は方針文書を理解せず再度同じ過ちを繰り返していますので、これ以上私がとやかく言わなくても、いずれ何らかの処分は下されるでしょう。--Boca samba 2008年2月16日 (土) 22:31 (UTC)[返信]


本門が勝れ迹門が劣る理由[編集]

寿量品には「然我実成仏己来無量無辺」と久遠実成が説かれ、迹門の始成正覚が打ち破られるので、本門が勝れて迹門が劣ります。--日目 2008年3月7日 (金) 14:59 (UTC)[返信]

それは特定宗派の法華経解釈ですので、記事としては不適切です。本門、迹門と区分けするのも一つの教説なのですが、この説が特に普及しているため記事中に言及しているのです。 2008年3月9日 (日) 08:44 (UTC)[返信]

これは特定宗派の解釈ではなく経文に載せられていることです。--日目 2008年3月9日 (日) 11:33 (UTC)[返信]

経文の解釈は記事として不適切です。 2008年3月10日 (月) 09:41 (UTC)[返信]

この項目は法華経を解釈するページではありませんでしょうか。--日目 2008年3月10日 (月) 15:48 (UTC)[返信]

貴殿の編集は一般的に知られる法華経の解釈の範疇ではなく、明らかに特定宗派の解釈に基づいた編集です。--Boca samba 2008年3月10日 (月) 19:41 (UTC)[返信]
はっきりお尋ねします。日目さん、あなたの会話ページ利用者:スのGさんも指摘していますが、もしかして無期限の投稿ブロックを受けたLeo masaakiさんですか? だとしたら悪質なブロック逃れですよ。--Mee-san 2008年3月11日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
私も正直なところ、スのGさん、Mee-sanさんと同じくその疑念を懐いています。日目氏の編集姿勢や行為はLeo氏と非常に相似しております。日目氏はご自身の内にある九識心王真如の都である(と富士門流で定義されておられる)南無妙法蓮華経に誓って誠実にお答えください。俗に嘘も方便とはいいますが、ご自身の内証・仏性に違背するような真似(方便という名目の嘘)をされないことを日目さんに期待しております。なお、この項目欄で日目さんが書いている本迹の勝劣についても、どなたかが既にその教義解釈を中立性の観点から記述済みです。したがって本門が勝れていると断定した貴殿の偏った記述は誰からも賛同を得られません。--Boca samba 2008年3月11日 (火) 10:56 (UTC)[返信]
ここは法華経のノートページですので、当方個人の批判は、他の人のためにも、当方のノートページでお願いします。久遠実成が現れると、それまで久遠実成を隠して説かれていた仏説は、すべて大妄語ということになります。これが本迹勝劣を立てる宗の解釈ですが、反論のある方はお願いします。--日目 2008年3月12日 (水) 06:29 (UTC)[返信]
別に批判などしておりません。ここで「当方個人の批判は」などと詭弁を展開して述べるより、ご自身のページで既にスのGさんから疑問視されていることに誠実にお答えするのが先決でしょう。でないとよけいに皆さんの疑念が沸きますよ。なお、久遠実成は私も尊重しその通りだと個人的には思いますが、貴殿の記述の理由にはなりません。理由は上記の通りです。--Boca samba 2008年3月12日 (水) 07:56 (UTC)[返信]
久遠実成の件でその通りだと思うのでありましたら、本迹勝劣で合意したということでよろしいでしょうか。--日目 2008年3月14日 (金) 09:20 (UTC)[返信]
いいえ違います。他人の褌で相撲をとるような真似は慎んでください。貴殿は特定宗派の教学を振りかざして一方的な記述をしたのですからそのような言い分は一切通りません。--Boca samba 2008年3月14日 (金) 10:48 (UTC)[返信]

中立的・客観的な編集のお願い[編集]

これは私見ですが、古来法華経が重用され様々な角度から解釈などが行われたことなどから料簡すれば、法華経の項目はまだまだ不備があり、今後も改訂して内容をさらに充実させる余地があると考えます。また個人的には、客観的中立性から記述するのなら各宗派間の法華経解釈の違いもある程度は記述してもよいのではないかと思います。

しかしながら、このところ、法華経及び日蓮、また題目など関連する項目において、Leo masaaki氏や日目氏のように、日蓮を本仏とされておられる宗派の方々による一方的な解釈に基づいた改訂が行われています。

Wikipediaには日蓮正宗や創価学会、顕正会など多くの信徒さんが編集されておられます。その多くは礼節をよく弁えておられるかと存じます。ご自身の信仰している宗教の教義解釈をいったん差し置いてでも中立的な記述を心掛けておられる立派な方々も拝見します。

とはいえ、Leo氏や日目氏のような偏執的な観点からWikipediaの中立性を損なう記述が繰り返されることは、今後この先も考えると大変憂慮します。したがって、もし同門流の方、あるいは同じ教条を持つ方で、中立的な視点に基づかず一方的な編集を繰り返される方を見かけましたら、同門のお立場から中立的な記述を心掛けるよう、これらの方々に対してご注意いただければ幸いです。もし放っておけば師子身中の虫となるかと存じます。なにとぞ中立性・客観的な視点からの編集向上をお願いしたく思います。私自身も至りませんが自戒を込めて申し上げます。--Boca samba 2008年3月12日 (水) 04:35 (UTC)[返信]

執筆者が、日蓮正宗、創価学会、顕正会だから、という理由だけで、記事を完全否定すると、逆に中立的・客観的とはいえないのではないでしょうか。ご意見を頂きたいと思います。--日目 2008年3月12日 (水) 06:32 (UTC)[返信]
それら信徒の方々であっても、Wikipediaの方針をきちんと弁えているということです。同じ門流でも貴殿とは違うのです。貴殿には読解力はないのでしょうか…。だから議論にならないのですよ。きちんと人の書いた文章を咀嚼してからコメントしてくださいね。--Boca samba 2008年3月12日 (水) 07:19 (UTC)[返信]
何度も繰り返しますが、当方一個人の批判は当方ノートページでお願いします。もっともwikipediaの基本方針によると、個人攻撃はあってはならないと有ります。--日目 2008年3月12日 (水) 07:30 (UTC)[返信]
あれれ?それを言ったのはLeo氏ですよねぇ?日目さんはどこで<何度も繰り返しますが、当方一個人の批判は当方ノートページでお願いします。>と述べてますか?馬脚を露呈したというか、貴殿が無期限ブロックを受けた、Leo masaaki氏のソックパペットと認めたということでよろしいんですかね?とりあえず関係各人にお伝えしておきますね。--Boca samba 2008年3月12日 (水) 07:38 (UTC)[返信]
中立的・客観的な編集をお願い致します。--日目 2008年3月14日 (金) 09:15 (UTC)[返信]
その言葉を日目さん、あなたにお返しします。あなたは人の事を言える立場ですか? いい加減、あなたの会話ページに書かれている質問に答えなさい!ろくに質問に答えない人には本ノートページで議論する資格はありません。また、会話ページの対話拒否は投稿ブロックの対象となりますことをご承知おき下さい。--Mee-san 2008年3月14日 (金) 10:20 (UTC)[返信]

中立的・客観的な編集は日目さん、貴方に求められているのですよ。上記の内容や時系列、また貴殿の会話ページなどから見ても、日目氏の言い分は理証の通らないことは明白なのでいちいち反論してもどうかと思いますが。他人を疲弊させるような議論は厳にお慎み下さい。--Boca samba 2008年3月14日 (金) 10:48 (UTC)[返信]

「法華經」への改名提案[編集]

「経」を「經」に改名するべきだと思われます。理由は「経」は新字なので、なるべく正字で顕すべきかと思われます。--理由を加筆日目 2008年3月12日 (水) 07:01 (UTC)[返信]

(反対)いちいち反論する必要もないかと思いますが、この手の方々は口が達者で、後々で議論に応じてないなどという屁理屈から、リバートする理由を与えかねないので、ひとまずお答えしておきます。
  1. 理由は「南無妙法蓮華經」への改名提案と同じです。
  2. 当初、ノートで改名提案も提議せずに、いきなり改名提案のテンプレを貼付
  3. その後、このようにノートで改名提案するも、理由を示さなかった
  4. Wikipediaは一般的な表記が推奨されます。1でねこぱんださんが提示済み。
  5. 日目氏の編集行為及び論理は、中立・公平というWikipediaの精神に反します。
以上。したがってまったく必要ありません。また他の諸賢の方々もご意見があればお願いいたします。--Boca samba 2008年3月12日 (水) 08:50 (UTC)[返信]

以下に反論を記載します。
  1. 理由は「南無妙法蓮華經」への改名提案と同じです。
  2. Wikipedia:ページの改名#改名前にすべきことの手順に則りテンプレートを張ってからノートで提案をしました。
  3. Boca samba殿の御指摘を受け、理由を加筆させていただきました。
  4. Wikipedia:表記ガイド#漢字には、歴史的文書の引用と固有名詞の表記に際しては、常用漢字以外の漢字を使用してよい場合があります。とあります。法華經は歴史的文書に該当すると存じます。
  5. 以上の理由により、Boca samba殿の批判は、的外れであると存じます。
ぜひ合意形成に向けてご理解いただきたいと思います。--日目 2008年3月14日 (金) 10:03 (UTC)[返信]

日目氏の提案には反対いたします。理由はBoca sambaさんがおっしゃってくれましたので割愛します(しかし記事が保護状態での改名提案は有効なのだろうか?)。--Mee-san 2008年3月14日 (金) 10:26 (UTC)[返信]

Mee-sanさんと同じく。おそらく無効でしょうね。理由は「南無妙法蓮華經」への改名提案で既に述べた通り。自身に対する疑義を解消せず無視したまま議論を続けるなど、まともな思考とは思えません。順序・道理がまったく通らない。宗教云々以前の問題。語る資格なし。特定宗派の教義を振りかざすより、日目氏には最低のモラルやルールを求めます。これは日目氏への駆遣呵責(折伏ともいうか?)です。これを単なる批判として「他の人に迷惑だから会話ページで」などと詭弁を言うのならきちんと疑念にお答えしてからお願いしますね。--Boca samba 2008年3月14日 (金) 10:48 (UTC)[返信]
一応、井戸端ページで質問しましたところ、記事名の付け方の原則、及び合意形成は難しいのではないか、とのことにより却下の方向がよろしいのでは、という回答をいただきました。今回の件(南無妙法蓮華経も含めて)については改めて反対といたします。--Mee-san 2008年3月14日 (金) 21:39 (UTC)[返信]

保護いたしました[編集]

ゆるやかな編集合戦となっていますので、解除期限を定めずに保護いたしました。記述内容には関知しません。ノートで合意を形成してください。--アイザール 2008年3月12日 (水) 07:37 (UTC)[返信]

保護解除の是非[編集]

(報告)本日、管理者の方々の判断により日目氏が無期限ブロックとなりました。

法華経及び南無妙法蓮華経の保護依頼は僭越ながら私が行いましたが、日目氏が無期限ブロックとなったからといって、現時点ですぐに保護解除を依頼していいものかどうか、私個人では判断がつきかねます。そこで諸賢のみなさまのご意見をお伺いしたいと思います。尚、今後も同様の行為(WPの基本方針である中立性を無視した特定宗派の教義解釈の視点中心で記述編集)を行う人物が出現するのは容易に想像されますし、また今後の編集の在り方も踏まえた上で、現時点での保護解除を依頼するかどうかの判断としたいと思います。よろしくお願いします。--Boca samba 2008年3月25日 (火) 00:59 (UTC)[返信]

(コメント)他宗の檀家の息子ですけれども、母方の家が日蓮宗なので一言。
Wikipedia:保護の方針#保護を解除してもよい場合の「しばらくの間議論がない、仲裁の試みが進行中など、解除しても問題が再発しないのではないかと思われる場合」に該当するのではないでしょうか。なので解除してもよいかと思います。--準特橋本Talk/Contribs2008年5月7日 (水) 10:39 (UTC)[返信]
『しばらくの間』というのは、1年程度だと私は考えます。記事補筆のために解除の希望が頻繁にあるのなら別ですが、そのような目的を伴う保護解除があるまでは解除すべきではありません。 2008年5月7日 (水) 12:49 (UTC)[返信]

岩波文庫岩本裕解説[編集]

なお、法華経には、上記の酔う法華七喩などの説話が多く収録されているため、一般大衆の信者を多く持つ教団によって作られたものであるという説もある。浄土真宗系の学者中村元は、長者窮子の譬喩で金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年であると推察している。また真言宗あるいは奈良仏教系の学者渡辺照宏も、50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない、と指摘している。

著作権云々にはあたらないでしょうが、そのまま記述を簡略にしただけの文章です。注を入れて、岩波文庫『法華経』上巻の何ページ、と潔く明示すべきだと思います。恥ずかしい。218.110.114.3 2008年10月23日 (木) 05:33 (UTC)[返信]

保護中の編集依頼[編集]

2年間の全保護中に言語間リンクが追加されておりますので修正をお願いします。

[[es:Sutra del loto]] → [[es:Sutra del Loto]] [[ko:법화경]] → [[ko:묘법연화경]] 追加 [[nl:Lotus Soetra]] [[no:Lotussutraen]] [[pl:Sutra lotosu]] [[sv:Lotussutran]] [[tr:Lotus Sutra]] [[uk:Сутра Лотоса]]

以上です[1]。--Tiyoringo 2010年9月12日 (日) 11:57 (UTC)[返信]


(「正しい教えである白い蓮の花」の意)という訳をめぐって[編集]

(「正しい教えである白い蓮の花」の意)という訳になっていない訳についていきなり削除してしまったので、納得できない方もおられると思い、なぜ訳になっていないのか、を説明しておきますと、この意には「経典」という意味がどこにも挿入されていないので、上方に表示することは不適切だと判断し、削除させていただきました。疑問・反論のある方とは、議論に応じたいと思います。--Leo masaaki 2008年2月17日 (日) 00:02 (UTC)[返信]

おそらく岩波文庫の梵語訳にそっているのだと思いますが、私も「白蓮のような正しい教え」と正確に訳した方が良いと思います。岩本裕博士は口語訳としての考慮をされたと書かれていますし、サンスクリットの複合語の知識が無い方が岩波文庫訳を鵜呑みにしただけだと思いますので。
また、これは般若経典などでも同じですが梵語テキストの経典名は「〜スートラ」とは必ずしも記されず、スートラの語は便宜上付け足している場合も多いことは、仰られる通りですね。--218.221.130.24 2008年7月3日 (木) 17:39 (UTC)[返信]
サンスクリット語をきわめて忠実に逐語訳したチベット語訳では「タムチュ・ぺカル(タムぺーチュ・ペマカルボ)」となっており、「正しい教え(である)白い蓮の花」という訳になんの問題もありません。IP218.221.130.24氏が正確だという「白蓮のような正しい教え」の「ような」に当たる語は、「saddharmapuNDariika-suutra」のどの部分にあたりますか?--Dalaibaatur 2010年9月9日 (木) 06:21 (UTC)[返信]
121.108.115.89 (会話) による 2015年3月30日 (月) 03:44の版にて、次のような説明が付加されましたが、「のように」に相当する語句の提示がないので、本文中より削除し、検討のため、以下に転記しました。--Dalaibaatur会話2015年8月17日 (月) 11:41 (UTC)[返信]
原題については以上のように説明されてきたが、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて、前半の語を譬喩的に修飾するというサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても「白蓮華のように〔最も勝れた〕正しい教え」と訳すべきで、白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて鳩摩羅什が「妙法蓮華」と漢訳したということが植木雅俊によって詳細に論じられている。[1]

インデント元に)転記された件を修正して注・出典として戻しました。会話2015年8月17日 (月) 14:08 (UTC)[返信]

麓さま。「白蓮華のように正しい教え」という訳は、植木雅俊の訳でしょうか?それとも麓さんの解釈でしょうか。「のように」という語句の補いが出現する『思想としての法華経』のページの数のご提示をよろしくお願いいたします。--Dalaibaatur会話2015年11月2日 (月) 13:55 (UTC)[返信]
『思想としての法華経』(2012年刊)は未見ですが、1年前刊行の植木雅俊『梵漢和対照 現代語訳 法華経』(2011年刊)では「白蓮華のように最も勝れた正しい教え」と訳しており、「のように」が既にあります。ノートよりは『注記』の方が良いと思ったのは私見です。なお町の図書館で確認したのでページは覚えていません。この件について私は拘りませんので為念。会話2015年11月2日 (月) 15:18 (UTC)[返信]
「詳細に論じられている」という記述の典拠として提示なさった文献が「未見」とすると、ではその記述そのものの典拠は何なのか…という点が腑におちませんが、「ように」そのものの用例については、植木氏の著作に典拠があるとの由。植木氏の2著の記述を確認いたします。--Dalaibaatur会話2015年11月10日 (火) 23:51 (UTC)[返信]
典拠として提示したのは私ではなく、121.108.115.89 (会話)ですので宜しくお願いいたします。会話2015年11月11日 (水) 08:38 (UTC)[返信]

インデント元に)上記2冊の書籍のもととなった論文を見つけましたので、本文修正しました。この論文は日本印度学仏教学会のサイトからpdf文書をダウンロードできます。会話2015年11月14日 (土) 07:42 (UTC)[返信]

  1. ^ 植木雅俊著『思想としての法華経』(岩波書店、2012年)第二章