ノート:禅定

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問題点の指摘[編集]

検証[編集]

① 現在、禅定#禅定の段階の節にこのような記述があります。

諸仏典では禅定の状態を区分し、まず初禅から第四禅までの4段階があるとしている。これが四静慮(四色定)である。二禅定、三禅定、四禅定の4段階があるとする。それぞれに名称が付与されており、阿羅漢果は色界の第4定である。

② その出典は、こちらの経文だそうです。

大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿育王經』 (T2043_.50.0168b10: ~): 於初禪定生須陀洹果想。於二禪定生斯陀含果想。於三禪定生阿那含果想。於四禪定生阿羅漢果想。

③ この経文の書き下しを、国訳一切経の史伝部6(大東出版社、1989年)の445頁で確認しますと、下記のようになっています。下線部が②との対応箇所。■は入力できなかった文字。

化人の因緣
爾の時、摩■羅國に一の善男子有り、優波笈多の所に於て、出家して道を修し、優波笈多は、其の為に法を説きたるに、既に法を説き已つて、世間の四禪を得、初禪定に於て須陀恒果の想を生じ、〔第〕二禪定に於て斯陀含果の想を生じ、〔第〕三禪定に於て阿那含果の想を生じ、〔第〕四禪定に於て阿羅漢果の想を生じ、『我、已に作すべき所を作せり』と言ひて、便ち懈怠を生じ、復、精進せざりき、優波笈多の言はく『汝、當に精進すべく、放逸を作す莫かれ』と。比丘答へて言はく『我、已に作すべき所を作し、乃至、阿羅漢果を得たり』と。

この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 10:48 (UTC)[返信]

報告 ノート:四禅#検証でも、この経文を出典とした記述について同種の問題提起がなされています。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 11:23 (UTC)[返信]

編集した。--118.83.188.9 2017年5月13日 (土) 17:54 (UTC)[返信]
聖徳太子の時代から知られていることに、未発表も独自研究もないという当方の主張に対する反論がない。加えて反証可能性という十分条件を備えた記述であるのだから、除去する前にカルトでも新興宗教でもいいから、瞑想や座禅でこれこれ然々となれば○○果を得たことになるといった出典を持ってきて、反証すべきであろう。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 13:40 (UTC)[返信]
>>聖徳太子の時代から知られていることに、未発表も独自研究もないという当方の主張に対する反論がない。
コメント このIP利用者は、「聖徳太子の時代から」何が知られており、その出典は何であり、それがどの資料に載っているのか、といったことを自分で全く示さないままで「聖徳太子の時代から知られている」などと発表しても仕方がないということが理解できていないようです。この人が未だにこのようなことを主張していることは注目に値します。。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 13:46 (UTC)[返信]
続きは、下記の#2017/06/23の節に続きます。--Leonidjp会話2017年6月23日 (金) 02:14 (UTC)[返信]

2017/06/23[編集]

IP利用者のこの加筆により、禅定#禅定の段階の節に下記の文が加わりました。問題点の指摘を書いておきます。

(四静慮には)それぞれに名称が付与されており[[阿羅漢]]果は色界の第4定だが、各禅定はいずれも[[瞑想]]や[[座禅]]で想じて作す境地ではないとされる<ref name="ara">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』 (T1819_.40.0836a24 ~): 非須陀洹果作須陀洹果想。非斯陀含果作斯陀含果想。非阿那含果作阿那含果想。非阿羅漢果作阿羅漢果想。…(中略)…。阿難。汝往重告諸比丘比丘尼優婆塞優婆夷來集聽法。此法皆是汝等昔所未聞。</ref>。
  1. 出典たる『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』からの引用部分には、何に何という「名称が付与されている」かを示す情報が載っていない。
  2. 出典たる『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』からの引用部分には「阿羅漢果は色界の第4定」との記述がない。
  3. IP利用者は「想じて作す」と読んでいるが、想と作はそれぞれ、脚注内(原文)では別の文に属しており、この二語の目的語が同一(=果)であることを支持する二次資料は挙げられていない。
  4. 「作すものではない」という否定の文意を「非」の字に担わせたいのであろうが、その読みが正しいとする二次資料は無い。たとえば「阿羅漢に非ざる果は、阿羅漢果の想を作る」とか、「非阿羅漢果が阿羅漢果の想を作る」とか、「阿羅漢果作と阿羅漢果想に非ず」とか、「阿羅漢果を作すに非ず、阿羅漢果を想ずる」などとも読み下せる。二次資料がないかぎりは、どの読み下しが正解だなどと決めようがない(=勝手に決めたら独自研究)。
  5. 出典たる『佛説廣博嚴淨不退轉輪經 (智厳)譯』からの引用部分には、瞑想や座禅という語が無い。

なお、ここに挙げた上述の問題点のうち、2と3と5は、すでに30日ほど前に四禅でも指摘された問題と同じものであり、4も四禅にて20日ほど前に指摘された問題と同じです。20〜30日も前に既に指摘されている問題点を、また新たにここへ再現していることが明らかです。--Leonidjp会話2017年6月23日 (金) 02:14 (UTC)[返信]

報告 上記6/23から40日余り経ちましたが、ここで指摘されている問題点は解消していません。この箇所は、信頼できる二次資料において未発表の説を発表したものですので独自研究に該当しています。除去しました。--Leonidjp会話2017年8月5日 (土) 23:20 (UTC)[返信]