ノート:西都原古墳群

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「日本最大の古墳群」というのは言い過ぎではないでしょうか?
数の面では、同じく「特別史跡」で「風土記の丘」として整備が行われている和歌山県の岩橋千塚古墳群の方が遙かに多いでしょうし、
古墳の規模や古墳群の分布範囲では、大阪府の古市・百舌鳥古墳群や、奈良県の大和(おおやまと)古墳群などには遠く及ばないでしょう。
確かに、これだけの数の前方後円墳を含んだ古墳群が、狭い範囲に集中するのは希有な例だとは思いますが。
「最大」という表現にこだわるのであれば「九州最大の古墳群」ぐらいが適当ではないかと思うのですが、いかがでしょう?
個人的には、日本で最初に考古学的調査がされた古墳群で、学史的に重要な意味を持つことの方を強調した方がよいのではないかと思います。

dai:2005年12月25日 (日) 17:03 (UTC) :私は西都原古墳群が邪馬台国だと信じています。理由のひとつに魏志倭人伝のこのような記述がある。↓ 「海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。」この記述を地図上で確かめると、韓國(以下釜山)~対馬國の距離は現在約100kmあるということはこの時代の1里は 約100mになる。ということはこの移動距離の合計が出る。1000+1000+500=2500里 2500里は必ず移動したことになる。500里とは2500×100=250000m→250kmこれは釜山~福岡東部に上陸して大分(国東半島)まで移動したこととして考えるとつじつまがあう。「水行二十日」この言葉の意味を信じてしまうと、屋久島、奄美大島付近になってしまう。奄美大島としてしまうと付近に戦争で戦った「くに」がなくなってしまう。ここで歴史の頭から地理の頭に変えてみよう。日本の太平洋側を走る高速で走っている奄美方向へ行く船(邪馬台国時代の)の妨げになる物それは、『日本海流』ではないか。またこの邪馬台国までの道のりを測定したのが夏だったらどうなるのか。宮崎方面に国東半島から行くとき距離は釜山~福岡東部より距離が長い。でも釜山~福岡東部までは大海原である。でも日本海側なので、風は乾いているから雨も降りにくい。また嵐も起こりにくい。また対馬海流は対馬と福岡の間を通っている。対馬の南側の島の東側の海岸に沿って南下していくと対馬海流に乗り東に少しずれて福岡に着く。 大分~宮崎間は季節風の影響を直接受け、雨も降り嵐も発生する可能性もあり、20日ほどで宮崎に着く。冬に行ったら日本海の大海原で嵐にあい、大分~宮崎間は20日もかからない。奄美まで行こうとすると、日本海流に流され、遭難してしまう。また宮崎に邪馬台国があったとすれば、神武天皇(この天皇は神武天皇とされているがたぶん他の実在していた天皇のこと)についての記述(広辞苑引用)「日向から東征して大和に入り、橿原宮を営んで即位した」と書いてある。天皇は邪馬台国の王一族の血統だと思う。そうすれば、天皇家の神話、魏志倭人伝の記述にも一致する。ここまでの仮説を含めて考えると西都原古墳群=邪馬台国ではないか。と僕は思う。