ノート:豊臣秀次

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豊臣秀次の子女のところ、「既に嫁いでいたためか、難を逃れた」というのはどうでしょうか。 真田信繁の側室になった隆清院は正室(菊亭晴季の娘)から生まれており、秀次の結婚は少なくとも本能寺の変の前ということは考えにくく(信長の家臣の甥にすぎなかった頃の秀次が大納言だった菊亭家の姫と結婚するというのは考えられません)、仮に本能寺の翌年、秀吉が柴田勝家を滅ぼした直後の結婚だとしても隆清院はさらに翌年以降の生まれで秀次が死んだ時には10歳以下ということになります。信繁の正室の子と隆清院の子の年齢差を考えても、信繁が隆清院を側室にしたのは大谷吉継の娘である正室との結婚のあと、秀次の死のずっとあとだと考えるべきで、したがって「既に嫁いでいた」可能性はまずありません。また、常識的に考えても秀次の生前に一大名にすぎない真田昌幸の次男である信繁が関白秀次の娘(しかも正室の娘)を正室ならともかく側室にできるわけがありません(秀次の生前に行われた縁組だとしたら、当然隆清院が正室、大谷吉継の娘=竹林院が側室に直されているはずです)。よって、この「既に嫁いでいたためか」は削除するべきだと考えます。以上の理由により、削除いたしました。--歴史研究家 2007年2月16日 (金) 01:50 (UTC)[返信]

北政所=武断派、淀殿、三成=文治派という図式はもともと明治40年に「稿本石田三成」という本を書いた渡辺世祐氏が武断派に尾張出身者が多く、文治派に近江出身者が多いことからそれを尾張出身の北政所と近江出身の淀殿にくっつけた憶測に基づいて提唱したもので、何の史料的な根拠もありません。それを後世の不勉強な学者や研究者が踏襲しているにすぎないのです。だから削除するべきなのであって、あなたが俗説に盲従しているだけなのです。「梵舜日記」は信頼度のきわめて高い一次史料であり、それ以外の出典を求める理由はどこにもありません。他の史料に「北政所と清正、正則は疎遠」と明記されているわけではありませんが、北政所と三成が極めて親密な関係であり、北政所=武断派という俗説が間違っていることを示す史料としては、「当代記」「時慶卿記」など、当時の第一級史料があります。また、白川氏の研究にも不信感を持っておられるようですが、私はやみくもに白川氏に盲従しているわけではなく、孫引きしているわけでもありません。他にも安藤英男氏「史伝石田三成」、三池純正氏「敗者から見た関ヶ原合戦」、佐賀郁朗氏「石田三成と津軽の末裔」など、白川氏と同意見の研究者がおりますので、一読をおすすめします。ぜひ思い込みを捨てて俗説の矛盾を考えてみてください。同様の理由で高台院、福島正則の項における貴方の書き込みも取り消させていただきます。--漬けマグロ 2008年7月8日 (火) 08:34 (UTC)[返信]

長々と書いていただきありがとうございます。ただし、秀次事件が関ヶ原の遠因であったとする研究もあります。その出典も示しており、それを削除する理由はありません。--彩華1226 2008年7月8日 (火) 15:00 (UTC)[返信]

理由がないと断定される根拠はなんですか?出典のことを言われるなら、それに反する十分な史料的な反論もあり、出典の史料的価値から見ても「削除する理由がない」などと断定されるのは甚だ独断的かつ誤りです。あなたの出典はハッキリ言ってあなたの嫌いな孫引き(渡辺氏の記述に対する)にすぎないのです。もう一つ、あなたは北政所=武断派というのが一般的常識だからそれに反する記述は独断と偏見であるように書いておられますが、それこそ司馬遼太郎の「関ヶ原」や橋田壽賀子の「おんな太閤記」のような小説やドラマによって浸透したものにすぎず、それを一般的常識だから正しいように書くのは間違っています。事実、北政所と武断派が接触した事実が史料に出てくるのは関ヶ原の3年後からです。それまでは信頼できる一次史料にそういう記述は未だ一つも発見されていないのです。北政所が清正や正則を少年時代から可愛がっているかのように書くのも甫庵太閤記のような記述に誤りが多くて全く信用できないものや江戸時代以降の俗書ばかりです。また、私の挙げた人でいうと、一人も小説家はおりません。また安藤氏はれっきとした学者です。「小説家や民間研究家ばかり」という言い方は無知をさらけ出すものですよ。あなたは他でも編集合戦を繰り返しておられますが、自分の狭い知識に反するものをすべて頑なに排除する姿勢こそがトラブルの原因なのだと気づいていただきたいですね。もう一つ、秀次事件がある意味で関ヶ原の遠因になったというのは豊臣政権に愛想を尽かしたり処罰や嫌疑を受けたことで反感を持つ人間が出たという意味ではその通りかもしれません。そういう記述ならばなんら反論しません。ただ、それと北政所=武断派という記述は全く無関係です。--漬けマグロ 2008年7月9日 (水) 04:56 (UTC)[返信]

直接論議に関係できるほど学がないのですがちょっと気になったので。本の書名は『』でくくるのがwikiでは普通なので、できればそのように書いていただけませんでしょうか? 全部「」だと書名なのか引用文なのかがはっきりしなくて読みにくいので、お手数ですがお願いいたしたく思います。>漬けマグロ様へ  --202.94.157.207 2008年7月9日 (水) 08:25 (UTC)[返信]
2ちゃんなら「お前が言うな」の一言で終わりそうです(特に「自分の狭い知識に反するものをすべて頑なに排除する姿勢こそがトラブルの原因」の部分)がw そういう場ではないので反論しますね。Wikipediaは執筆者の一方的な意見を押し付けたり、他のユーザーを誹謗するような態度をとることは容認されません。また、中立性の観点から一方の学説だけ載せて、あとは小説の類の嘘の俗説だから排除するという姿勢も容認されません。前のアカウントの時代のノートもう1回読んで、執筆態度について再考を願いたいところです。--彩華1226 2008年7月9日 (水) 06:06 (UTC)[返信]

私のどこが狭い知識なのか指摘してもらいたいものですね。梵舜日記すらよく知らない方よりは広いと思います。また、私はあなたのように頑なに人の意見を排除はしません。それがきちんとした根拠に基づくものなら尊重します。それに編集内容の要約を読む限り、あなたは論点を全く誤解されておられるようです。私は武断派と文治派の争いがなかったなどとは全く主張しておりません。看羊録などを引き合いに出さなくても結構です。ただし、秀次事件において三成は全く関与しておらず(当時の手紙などにおいて、事件当時三成は薩摩に検地のため出張しています)、この事件が三成と武断派の対立の遠因であるかのような書き方は全くの誤りです。池田輝政や細川忠興が豊臣政権を見限って家康に接近したきっかけであることは確かでしょうが、三成と武断派(特に加藤清正と浅野幸長)の対立の原因は朝鮮の役において、無謀な秀吉の野望に徹底的に忠実な清正と、無謀な戦争は秀吉を騙してでもやめるべきだとした小西行長が対立した時に、三成が行長を支持したことと、清正や幸長が蔚山の包囲を解いた敵が退却するのを追撃しなかったことを軍監の福原長堯が怠慢として報告したのを三成がそのまま秀吉に取り次いだ(清正らはその余力がなかったと主張していた。また三成が福原の義兄であることからこれを悪意に基づく讒言と曲解した)ことの2点です。秀次事件で誰が三成を恨むことがあったのでしょう。もう一つ、北政所=武断派という記述が重大な誤りであって、あなたは唯一の証拠ともいうべき浅野幸長の手紙を挙げましたが、ではなぜ土壇場まで秀秋は西軍にいたのでしょう。秀秋よりもよっぽど北政所と親密であることが多くの史料でも読める宇喜多秀家がなぜ西軍の中心なのでしょう。原文を読むと、「北政所様が大事ならば東軍につけ」という内容であって、これは「裏切らないと北政所の安全は保障しないぞ」という脅しとも受け取れます。これは解釈の違いで水掛け論になるでしょう。それ以外の事実を検証すれば、俗説の誤りは歴然としています。たとえば北政所の周辺(側近や甥たち)はすべて西軍関係者で(甥の木下勝俊、利房ら5人、孝蔵主、東殿局、辰姫など)、武断派の関係者は一人だけ、細川忠興の妹を妻にしていた甥が忠興と共に東軍に参加してるのがいるだけです(この甥はふだんから北政所の周辺に全く現れておらず交流した様子が一つもありません)。逆に淀殿の周辺に西軍関係者が一人もいないのです。また『言経卿記』には、三成が清正らに襲撃された時、北政所が家康に三成の保護を依頼したことが明記されています。また、大阪城には秀吉の財宝が大量にあったのに、片桐且元が西軍のために金蔵を開けることを拒否したことが当時の手紙に明記されています。淀殿が真に三成を支持していたなら、淀殿と秀頼の名において西軍が且元を殺して金蔵を開けても全く問題はなかったはずですが、実際は豊臣家の財産を全く使うことが出来なかったために三成らは自分の私財をすべて投げ打って資金が底を尽いたことが三成から増田長盛へ出された手紙の中で書かれています。これらの事実からも、北政所=武断派、淀殿=三成派という俗説は誤りだと断言できるでしょう。違うというならこれらの論拠に反論してみてください。つまり、秀次事件が三成と武断派の対立の遠因と受け取られかねない記述(武断派の一部が豊臣政権を見限ったという書き方なら賛成します)、北政所=武断派という記述の2点が削除の対象なのです。--漬けマグロ 2008年7月10日 (木) 15:12 (UTC)[返信]

「北政所=武断派」、「この事件が三成と武断派の対立の遠因」ってどこに書いてますか? もし、私のこれまでの記述をあなたがそう感じているのは誤読以外の何ものでもありません。参考文献にした笠谷氏の文献には「北政所が東軍だった」「三成が秀次事件の黒幕」とは書いていません。武断派vs三成などのほかに、秀次事件が関ヶ原の戦いにつながる豊臣政権の構造的対立の要因のひとつであったことが述べてあるだけです。それらの対立構造が複雑に絡み合って(あなたが否定している「北政所=武断派、淀殿=三成派」という単純な図式ではなく)おり、そうした複雑な構造のなかで、北政所派・武断派・秀次事件で家康により事なきを得た大名の多くが最終的に東軍に参じることになったというのが笠谷氏の論です。笠谷氏の論では、三成挙兵は「三成・大谷単独挙兵」→(毛利・増田・長束らを説得)→「秀頼を奉じての家康討伐(内府ちがいの条々)」という二段階に分かれており、畿内・西国の大名は第2段階において西軍についた、小山評定で東軍に参じた大名は(第1段階の情報しか伝わってない段階)で旗幟を明らかにしたとしています。そのため、北政所の周辺にいた(すなわち在大坂・西国の)宇喜多や木下家関係者らが西軍でも全く整合性に問題はありません。
最後に、参考文献を書いた記述を理由なく削除するのは荒らしになりますので、これ以上の編集合戦はいやなのですが、削除された記述は差し戻しておきます。ウィキペディアは戦いの場ではありません。異なる意見を頭ごなしに排除する姿勢は改めていただきたいことを付け加えさせていただきます。--彩華1226 2008年7月10日 (木) 16:48 (UTC)[返信]

あなたこそ頭ごなしに私の書いたことを排除しているのです。私は全く「頭ごなし」ではなく、きちんと削除理由も明記しております。笠谷氏の著作を私も注文しました。それを拝読しますから、貴方も私の挙げた一次史料や著作をきちんと読んでいただきたいですね。私が長々と書いたことは、実は北政所派=三成派(三成、宇喜多、大谷、小西、それに三成と親密だった真田昌幸、佐竹義宣、津軽為信などです。ただし佐竹は父義重の反対により中立、津軽は領国の周辺がすべて東軍だったことから東軍に従軍した)ということなのです。したがって、あなたが「北政所派の多くが最終的に東軍に参じることになった」と上でも書いているのがすでに間違いなのです。あなたの記述で見る限りにおいて、笠谷氏ははなはだこの三成と北政所の関係の深さについて勉強不足ではないかと思います。また、二段階云々の部分で、どうして北政所の周辺にいた人たちが西軍であることと整合性に問題ないのか理解できません。あなたの言うとおりなら、挙兵後に彼らを結束して西軍と戦わせることが、あるいは京極高次のように勝手に城に帰って西軍に不服従の意を明らかにさせることが北政所にはできたはずです。彼らも「三成らの家康に対する弾劾文は正当性がなく、北政所様の命令が豊臣家のために正しい」という大義名分を主張できるのですから。にもかかわらず彼らがそのまま西軍として戦っている事実は整合性に問題ありまくりでしょう。私も編集合戦は望むところではありません。議論の末に納得の上で自ら削除するよう求めます。ちなみに以前の書き込みでは「北政所」というキーワードがあったから、そう受け取らざるを得ない(私の誤読というより、誰でもそう読みますよ)のです。今回の書き方なら、私の方から削除するつもりはありません。--漬けマグロ 2008年7月11日 (金) 05:56 (UTC)[返信]

項目について[編集]

豊臣秀頼のノートにも書きましたが、方広寺の鐘銘、北野天満宮摂社地主神社の擬宝珠等、秀頼が檀那となった神社仏閣に残された署名はすべて「豊臣朝臣秀頼」です。羽柴の苗字は名乗っておりません。秀頼が終生羽柴姓を名乗ったということは否定できると思われますので、関連の脚注を削除いたしました。--219.167.115.251 2008年8月2日 (土) 18:24 (UTC)[返信]

土御門有脩について[編集]

連座者の項目に「土御門有脩(流罪)」とありますが、秀次事件当時は既に亡くなっていたはずです。 同名の別人か、息子の久脩の誤りでしょうか。--以上の署名のないコメントは、220.210.179.110会話/Whois)さんが 2010年6月27日 (日) 06:39 (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。[返信]

粛清の理由[編集]

2009年11月より出典が求められ、一向に改善が見られません。資料が示されず不確かな(多分にPOV)情報を掲示し続けることは適切でないと思いますのでいったん外させていただきます。--27.231.203.233 2013年5月23日 (木) 09:28 (UTC)[返信]

コメント 出典が見つかったとしても、不確かというよりおそらくは巷間読物的な史料が元で、現代で言うところのゴシップのような俗説的内容ですので再度加筆される場合は、「逸話」「俗説」として学術的アプローチからの「粛清の理由」とは別の節にした方が良いかと思います。--ジャムリン会話2013年5月23日 (木) 10:59 (UTC)[返信]