ノート:響 (吹雪型駆逐艦)

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ソ連時代の艦名について[編集]

「プルィートキイ」(Прыткий)であるとする情報もあり[1]、その上、「1962年に標的艦としてカラムジンに沈められたプルィートキイの姿を今でも確認できる」という情報もあります[2]

ただ、海底に現存するといわれる「プルィートキイ」が本当に「響」なのか確認が取れないこと、さらにまったく同時期にバルト艦隊に「プルィートキイ」と呼ばれる艦(旧ドイツ駆逐艦「フリードリヒ・イーン」)が存在することから、「響」が「プルィートキイ」と呼ばれたとする情報は疑わしいものと考え、取敢えず「ヴェールヌイ」説を採りました。より詳しい情報をお持ちの方はお知らせ下さい。--ПРУСАКИН 2007年10月7日 (日) 07:52 (UTC)[返信]

なお、たまたまかもしれませんが日本からの賠償駆逐艦・水雷艇は皆「V」で始まる艦名にされており、「響」だけ「P」で始まる名前だったのだろうかという疑問もあります。特に根拠のある疑問ではありませんが。--ПРУСАКИН 2007年10月7日 (日) 09:41 (UTC)[返信]

ソ連への引き渡し場所[編集]

ナホトカは少し遠すぎる気がする。ロシア側資料では大湊で引渡しとコメントアウトで書かれ引き渡し場所を大湊に変更されていますが、日本の文献はナホトカで引き渡しになってます。遠すぎる気がする点に関しては、他の艦では海防艦55号、若鷹、夕風がシンガポールでイギリスへ引き渡しなどの例があります。なので特に遠いという訳ではないです。

ということで両論併記の形に変更しました。なにかあればココにお願いします。222.4.68.231 2007年10月7日 (日) 08:50 (UTC)[返信]

追記:大湊を否定する資料があるわけではないですが、以下は個人的に思うこと。賠償艦を引き渡すのに戦勝国側の人間が日本に来いというのはちょっと変な話。中国への引き渡しは青島などに船を持っていって日本人乗員は同行の日本船に乗って帰ってきてます。また大湊で引き渡した場合、不慣れなソ連側乗員で日本海を渡らなければいけなくなります。そんな危ないまねをするのかどうかという点でも疑問です。直ちに日本で売却するなどの特別の事情がないと日本での引き渡しは無いのでは?というのが個人的意見です。(IPアドレスが変わってますが222.4.68.231です。)220.217.131.206 2007年10月7日 (日) 09:20 (UTC)[返信]
了解です。取敢えず現在のスタイルが最善のものと思います。私も言われてみればナホトカ説の方が尤もらしい気がしてきました。ただ、大湊でと書かれている情報もり、どちらかが間違えとわからぬ限り併記は止むを得ないでしょう。修正とコメントありがとうございました。--ПРУСАКИН 2007年10月7日 (日) 09:41 (UTC)[返信]