ノート:骨喰藤四郎

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刀の種類について[編集]

解決済み冒頭部の定義文(第1文)には「薙刀直しの脇差」という表記とし、注釈節にて歴史的経緯として過去に打刀として分類されていたことや現代でも展覧会では打刀と分類されることがあることを表記する。--従六位上河内介会話2020年2月17日 (月) 12:38 (UTC)[返信]

掲題の通り、2019年12月8日 (日) 14:52時点における版ではこの刀は脇差とされておりますが、 『特別展京のかたな : 匠のわざと雅のこころ』の81頁では脇差としてではなく刀として扱われております。つきましては刀が長さなど色々論拠はあると思うのですが、両方で扱われているのであれば出典とともに両論併記、そうでなければいずれかで示したいのですが、皆様も調査に御協力いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。--遡雨祈胡会話2019年12月8日 (日) 15:01 (UTC)[返信]

返信 度々失礼いたします。骨喰藤四郎の刀種について、小和田泰経著『刀剣目録』(2015年刊行)85頁には”薙刀⇒脇差”と記されておりました。また、渡邉妙子著『名刀と日本人』(2012年刊行)117頁には”脇指”との記載がありました。また、東由士編集『刀剣物語』(2015年刊行)88頁にも一尺九寸四分の脇差となったという記述があり、『BRUTUS』(2018年9月15日刊行、877号)47頁にも「刃長58.7cmの脇差に磨り上げられた。」との記述があったため、基本的には骨喰藤四郎は脇差とみなされていると解釈しております。『特別展京のかたな : 匠のわざと雅のこころ』81頁における解説文に打刀にしたものという記載も確認いたしましたが、この末兼主任研究員による解説以外に現在のところ打刀であるという資料が見当たらないため、記事冒頭部には”薙刀直しの脇差”という表記を載せたうえで注釈節にて末兼主任研究員による解説として打刀説があるという表記が妥当だと考えております。--従六位上河内介会話2019年12月15日 (日) 13:23 (UTC)[返信]
コメント 気になっている理由がもう一つあって、福岡市立博物館にて開催された侍展の図録でそちらでも打刀として扱われているという話を伺っています。申し訳ないことに当方はまだ確認できていないのですが、ただの説で扱うには出所が結構あるなと思っているのと、文化遺産データベースでも書き方が「薙刀直シ刀」となっております。まだ結論を出すには早いのではないかと思うので、もう少し調べてみた方がいいかなと思っているのと、明確でないのであれば日本刀であることだけ明らかにしておけばとりあえず現時点において誤った情報を記すリスクも減らせるのではないかと考えております。--遡雨祈胡会話2019年12月15日 (日) 13:42 (UTC)[返信]
コメント 議論の長期化を防ぐため、コメント依頼に出したことをお知らせいたします。 --従六位上河内介会話2020年1月20日 (月) 14:56 (UTC)[返信]
返信 結論から申し上げると、「鎌倉時代に作られたとされる脇差。伝統的には刀と分類される場合もある。」あるいは「鎌倉時代に作られたとされる脇差。ただし、『享保名物帳』では刀と分類されている。」のように書くのが妥当ではないでしょうか。自分でも気になって脇差#刀と脇差の違いというのを書いてみました。調べてみたところ、「現代的な分類では」刀と脇差の違いは2尺という長さにあるようなので、日本語版ウィキペディアは現代日本語で書く場であることを考えると、骨喰藤四郎は脇差になるかと思います。ここで問題なのが、「現代的な分類では」という点で、『日本刀大百科事典』が挙げている文献の年代を見る限り、この2尺という基準が発生したのはどうも18世紀ごろのように見えます。しかも、幕末まで完全に普及していた訳でもないようです。実際、18世紀初頭の『享保名物帳』(の活字化版の『詳註刀剣名物帳』)を見てみると、骨喰藤四郎は「刀」と書かれています([1])。また、他にも、9寸6分の豊後藤四郎が「脇差」と書かれていたりします([2])。骨喰藤四郎を刀とするのは、おそらく、『享保名物帳』等の伝統的な分類の記述の名残が、現代まで伝わったものではないでしょうか。また、このように伝統的な権威がある書籍の説や分類法は、それが現代のものとは違ったとしても、常には無視できるものではないと思います。ですから、第一文はまず現代的な分類に統一し、『享保名物帳』のように特筆すべき伝統的な分類がある場合は、第二文として併記するのが適当ではないかと考えます。--Senu会話2020年2月1日 (土) 10:29 (UTC)[返信]
  • 提案  最後のコメントから1週間経過したため、刀種の表記方法について提案させていただきたいと思います。まず、Senu様のご指摘通り現代的な分類では脇差と分類されるため、第一文では脇差と表記したく存じます。また、『享保名物帳』など現代的な分類が成立する前は刀として分類される場合があったことを踏まえて、第2文にて過去に刀として分類されていた経緯があり、現代でも一部(『特別展京のかたな : 匠のわざと雅のこころ』など)では刀として分類する場合もある。という旨で記述したいと考えています。なお、第2文で刀と分類されていた経緯を表記すると冒頭部から表記が膨大になるため、第2文は注釈節にて記述を検討していることを申し添えます。もし、こちらの提案内容に賛成・異議がありましたらご指摘頂きますと幸いです。なお、WP:CONSにおける合意形成節にある通り、合理的な期間として約1週間(168時間程度)内に異論がなければ、提案がそのまま決定事項として修正させていただきたいと思います。以上、よろしくお願いいたします。 --従六位上河内介会話2020年2月9日 (日) 13:14 (UTC)[返信]
差支えなければどういった文面で書こうと考えられているか、こちらに記載頂くことは可能でしょうか。経緯も整理できるのでご検討いただけますと幸いです。--遡雨祈胡会話2020年2月9日 (日) 13:29 (UTC)[返信]
返信 失礼いたします。上記提案に際して下記のように表記することを検討しています。ご確認お願い致します。

骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀薙刀直しの脇差[注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ 現代では2尺(60センチメートル)未満の刀は脇差に分類されるため本項でも脇差として表記する。ただし、脇差と打刀の基準である2尺の基準が成立したのは18世紀ごろであるが、この基準は幕末までも完全に普及していたわけではない。そのため、18世紀初頭に記された『享保名物帳』および活字化版にあたる『詳註刀剣名物帳』では本作を「刀」と表記している。なお、2018年に京都国立博物館に行われた「特別展京のかたな」の図録である『匠のわざと雅のこころ』では、本作の解説文にて「打刀」と表記されるなど、現代でも歴史的経緯を踏まえて打刀として分類される場合がある。

--従六位上河内介会話2020年2月10日 (月) 12:46 (UTC)[返信]

一部修正--従六位上河内介会話2020年2月10日 (月) 12:50 (UTC)[返信]

気になった点だけ少しふれますね。「現代」だとWP:DATEDに触れるのではないかというのは少し気になります。それからお手数をお掛けして申し訳ございませんが、{{Reflist-talk}}か何かを利用して出典の表示をお願いしてもよろしいでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年2月10日 (月) 14:55 (UTC)[返信]
たびたびすみませんがもう一点提案に近い内容を出します。注釈以外でも節を別で設けるなどして詳細は後述するなどでもいいのではないでしょうか。それであれば量のことは気にせずとも済むのと、WP:NPOVとしてWikipedia側で判断したとみなさない文面(要はどこどこでは○○と書いてあるを並列に並べる)が出しやすい気がします。--遡雨祈胡会話2020年2月10日 (月) 15:08 (UTC)[返信]
お疲れ様です。とても良い文面だと思います。第二文を注釈にするか別の節にするかは、私はどちらでも構いません。「現代」という表現に関しては、この場合の現代は、近世近代に続く時代区分という意味なので、ここはあえて現代とする方が、時代ごとの違いが明確になって良いのではないかと、私見では思います。WP:DATEDで警告されているのは「結果的に執筆時点でしか成立しない表現」となることですが、この場合は(おそらく)300年程前に提案され150年程全国で使われてきた分類法で、今後大きく変化することも予期できませんし、そこまで問題とはならないと考えます。現代という単語をどうしても避けるならば、近代も含めることにして、「現代」を「近代以降」とするのも良いかもしれません。--Senu会話2020年2月11日 (火) 07:29 (UTC)[返信]
返信 失礼いたします。いくつか指摘がありましたので、順を追って意見を申し上げます。まず、①第2文の記述について、注釈節か新規節を設けての表記にするかに関して、私の意見としては注釈節での表記の方がよろしいかと思います。理由として2点ありまして、1.第2文の表記が膨大であるため冒頭部の表記が煩雑になる懸念から注釈節に移す事を申し上げましたが、新規節に詳細を移すと冒頭部の解説文にある脇差である事への補足説明として機能しなくなる懸念があります。そして、2.刀か脇差かと判断が分かれるのは、骨喰藤四郎の刀身の磨上げが直接の要因ではなく、刀と脇差の基準そのものが変化したのが主な理由であるため、骨喰藤四郎本体と直接関係がない記述を独立節を設けて本文中に表記することに違和感があるためです。②注釈節の”現代”の表記については、Senu様の意見に大いに同意いたします。”2020年現在”という表記もありましたが、刀種が変更されることはあまりないことであり「結果的に執筆時点でしか成立しない表現」を避けるWP:DATEDの趣旨とは異なるのではないか思います。③遡雨祈胡様よりお話がありました出典付きの注釈節について下記の通り示されていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀薙刀直しの脇差[注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ 現代では2尺(60センチメートル)未満の刀は脇差に分類されるため本項でも脇差として表記する[1]。ただし、脇差と打刀の基準である2尺の基準が成立したのは18世紀ごろであるが、この基準は幕末までも完全に普及していたわけではない[1]。そのため、18世紀初頭に記された『享保名物帳』および活字化版にあたる『詳註刀剣名物帳』では本作を「刀」と表記している[2]。なお、2018年に京都国立博物館に行われた「特別展京のかたな」の図録である『匠のわざと雅のこころ』では、本作の解説文にて「打刀」と表記されるなど、現代でも歴史的経緯を踏まえて打刀として分類される場合がある[3]

出典

  1. ^ a b 福永酔剣『日本刀大百科事典』 1巻、雄山閣出版、1993年11月20日、293-294頁。ISBN 4639012020NCID BN10133913 
  2. ^ 羽皐隠史『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形』1919年、嵩山堂(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、121コマ目)
  3. ^ NHKプラネット近畿『特別展京のかたな : 匠のわざと雅のこころ』(再)、2018年9月29日、81頁。 NCID BB26916529 

--従六位上河内介会話2020年2月11日 (火) 15:13 (UTC)[返信]

返信 横から失礼致します。細かいことで恐縮なのですが、享保名物帳には第1類と第2類がありますね。骨喰藤四郎について「刀」という記載があるのは2類の方で、1類の方にはこれこれの33コマのように「刀」とも「脇差」とも書かれていません。そして1類は「享保」名物帳と呼ばれるとおり18世紀初頭の成立とみられるわけですが、2類のほうはもっと時期が遅くて本阿弥光恕(芍薬亭長根、1767-1845)の本からだという説があります(参考)。私も享保名物帳の諸本にそれほど目を通しているわけではないのですが「18世紀初頭に記された『享保名物帳』…では本作を「刀」と表記している」としてしまうと少々危うい気がします。いかがでしょうか。--小萩きりく会話2020年2月14日 (金) 10:43 (UTC)[返信]
返信 お世話になります。小萩きりく様のご意見を受けまして、少し調べましたところ確かに享保名物帳第1類には刀種への言及がなく、本阿弥長根が作成した第2類には刀種を刀と表記しております。また、詳註刀剣名物帳については享保名物帳第2類を底本として記述されたもの(参考)であるとのことです。そのため、小萩きりく様のご意見を反映しまして記述内容を以下のようにしたく存じます。ご確認お願い致します。

骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀薙刀直しの脇差[注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ 現代では2尺(60センチメートル)未満の刀は脇差に分類されるため本項でも脇差として表記する[1]。ただし、脇差と打刀の基準である2尺の基準が成立したのは18世紀ごろであるが、この基準は幕末までも完全に普及していたわけではない[1]。そのため、『享保名物帳』第1類では刀種への言及はないが、本阿弥光恕(芍薬亭長根、1767-1845)が編纂した第2類、および第2類の記述を底本とした『詳註刀剣名物帳』では本作を「刀」と表記している[2]。なお、2018年に京都国立博物館に行われた「特別展京のかたな」の図録である『匠のわざと雅のこころ』では、本作の解説文にて「打刀」と表記されるなど、現代でも歴史的経緯を踏まえて打刀として分類される場合がある[3]

出典

  1. ^ a b 福永酔剣『日本刀大百科事典』 1巻、雄山閣出版、1993年11月20日、293-294頁。ISBN 4639012020NCID BN10133913 
  2. ^ 羽皐隠史『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形』1919年、嵩山堂(参照:国立国会図書館デジタルコレクション、121コマ目)
  3. ^ NHKプラネット近畿『特別展京のかたな : 匠のわざと雅のこころ』(再)、2018年9月29日、81頁。 NCID BB26916529 

--従六位上河内介会話2020年2月15日 (土) 04:15 (UTC)[返信]

一部修正--従六位上河内介会話2020年2月15日 (土) 04:15 (UTC)[返信]

コメント いろいろ丁寧にご対応いただきありがとうございます。随分前のコメントで言及した資料について情報が出たので、使うかどうかはともかくとして参考までに掲載しておきます。2019年に開催された『特別展 侍 もののふの美の系譜』の図録によると、213頁に重要文化財 薙刀直し刀 名物 骨喰藤四郎 との名称で記載され、重要文化財 薙刀直し刀 銘 国重・八幡大菩薩/点万大自在天神と同様に棟を落として刀に直された旨が記載されております。--遡雨祈胡会話2020年2月15日 (土) 14:30 (UTC)[返信]
コメント すみません情報が足りませんでした。補足するとこの展示では脇指も3点展示されたようで、それぞれ脇指 名物 物吉貞宗、脇指 銘 備州長船康光/□永廿五年八月日、脇指 名物 碇切と記載されております。参考までに。--遡雨祈胡会話2020年2月16日 (日) 01:51 (UTC)[返信]
コメント 従六位上河内介様、詳しく反映していただきありがとうございました。新旧の資料が明示されていますし、論旨もわかりやすくて良いと思います。--小萩きりく会話2020年2月16日 (日) 04:37 (UTC)[返信]
  • 終了 上記提案の件について、Senu様、小萩きりく様の同意が得られたとして冒頭部の定義文については上記表示分に沿って修正をさせていただきます。なお、遡雨祈胡様にご指摘いただきました2019年に開催された『特別展 侍 もののふの美の系譜』についても、注釈節に追記させていただきます。--従六位上河内介会話2020年2月17日 (月) 12:38 (UTC)[返信]
すみません、議論ぶったぎってしまって申し訳ございませんが、出典と記載が異なる個所の修正と、出典の追記を行いました。--遡雨祈胡会話2020年2月17日 (月) 13:47 (UTC)[返信]
コメント 読みやすさを損なわずにより正確な記事になり、有意義な議論でした。注釈もわかりやすい文章だと思います。最も議論と執筆の労を取ってくださった従六位上河内介さん、問題提起をしてくださった遡雨祈胡さん、興味深い資料をご教示してくださった小萩きりくさん、どうもありがとうございました。--Senu会話2020年2月17日 (月) 14:13 (UTC)[返信]
本当に皆様ご協力いただきありがとうございました。大変興味深い話でした。個人的に気になる話ではあるので、機会があれば今後どう扱われるのかも含めてまた調べてみるのもいいのかもしれません。文章を提示いただいた従六位上河内介さん、脇差に関する資料と時代ごとの変遷を提示いただいたSenuさん、享保名物帳に関する知見を提示いただいた小萩きりくさん、ありがとうございます。--遡雨祈胡会話2020年2月17日 (月) 23:55 (UTC)[返信]
コメント 京都国立博物館の末兼氏が本を執筆中なんて話もネット界隈から聞こえてきますし、また新たな視座の書籍などが出てくると扱いが変わることもあるかもしれませんね。皆様ありがとうございました。途中からかき回して失礼致しました。--小萩きりく会話2020年2月18日 (火) 05:34 (UTC)[返信]

①「骨食」は「ほねかみ」と訓まれるか/②ほねかみ=骨喰藤四郎、で良いか[編集]

①「ほねかみ」が『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』(以下『着到』と省略)に記録されている足利義尚の1487年の近江出陣に携えられていった長刀=なぎなたであることは記事のとおりです。しかし、この「ほねかみ」を「骨食」という漢字の語の訓みとして、定義部で「古称を骨食(ほねかみ)と言い…」としてしまうのは抵抗があります。おそらく福永酔剣『日本刀大百科事典』の「骨かみは骨喰みに違いないから、当時はまだ薙刀だったことになる」という一文に拠ったものと推察しますが、この部分は、骨喰藤四郎と骨かみ(『着到』のほねかみ)を名称の類似から同定しているだけの文章であると私は読みましたし、同項目内で骨食にほねかみという振り仮名がふってある箇所も見当たりません。骨食をほねかみとよまないことを証明するのは難しいのですが、たとえば『武家名目抄』では骨食と骨嚙は別々に立項されています(骨食骨嚙)。古称については「骨食・骨啄」と書いておくに留めたほうがよいと思っているのですが、いかがでしょうか。

②さらに突っ込んだ話になりますが、福永酔剣は『着到』のほねかみと骨喰藤四郎は同一の刀剣だとし、それを前提に『日本刀大百科事典』の「ほねばみ【骨喰み】」 の項目で自説を展開しているのですけれど、実際のところ両者が同じ物だという証明できる史料は今はないのではないかと私は思っています。できれば記事においては慎重に、「福永酔剣はほねかみと骨喰藤四郎を同一の刀剣だとしている」という断りを入れた上で(骨喰藤四郎を『梅松論』の骨食や『着到』のほねかみと同一視する立場からは一歩引いて)構成したほうが読み手にもわかりやすいのではないかと考えているのですが、ご意見をいただきたくお願い致します。

ただいま書こうとしている、骨喰の名前の由来の段落の部分の案を載せておきますので、こちらにも御助言をお願い致します。

骨喰(ほねばみ)の名前の由来には諸説がある。『享保名物帳』第2類では戯れに斬る真似をしただけで相手の骨を砕いてしまったためと説明されている。また徳川将軍家の刀剣台帳の写本類[1][2]は骨を縫い綴ったような痛みを感じるからと記し[注釈 1]、同様に福永酔剣の個人所蔵である『享保名物帳』の享保八年の異本には、これで斬られた場合、骨にしみるように感じるからと記されているという[5]。また豊臣秀吉と対面して直接骨喰を見せられたイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは『日本教会史』[6][7]に「軽く振っただけで、根もとから切られた大根のように骨を切るので、骨を丸嚥みにする刀という意である」[注釈 2]と述べている。

脚注

注釈

  1. ^ 福永酔剣『日本刀大百科事典』はこの由来の説の出典を片桐且元によって整理された豊臣家の刀剣台帳『豊臣家御腰物帳』(慶長5~18年)としているが、金沢市立玉川図書館所蔵『豊臣家御腰物帳』[3]や国立国会図書館所蔵『大坂御腰物帳』[4]など現存する写本には該当する文がみえない。豊臣家ではなく、徳川将軍家の刀剣を管理した江戸城の御腰物奉行による台帳の写本『御代々御指 御名物御銘刀 焼直シ其外御道具目録』[1]や『上覧御名物御道具書留』[2]には「此刀ニテ切付候得ハ、骨ノ縫綴候様ニ相脳(悩)候ト申切レ物ノ由ニテ、骨喰ト名附候之由」とそれらしい文がある。
  2. ^ 原文はポルトガル語。"se chamava Fone famy, id. est., tragade(i)ra de ossos, por os cortar ainda levemente correndo por elles como nabos cercios."[6]

出典

  1. ^ a b 東京国立博物館デジタルライブラリー『御代々御指 御名物御銘刀 焼直シ其外御道具目録』江戸時代中期、37コマhttps://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/690 
  2. ^ a b 宮崎成身「上覧御名物御道具書留」『続視聴草』汲古書院〈内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第二-九〉、1985年、188-198頁。 
  3. ^ 佐野美術館、徳川美術館、富山県水墨美術館、根津美術館『名物刀剣 宝物の日本刀』佐野美術館、2011年、160頁。ISBN 978-4-915857-79-9 
  4. ^ 本阿弥光徳 著、本間順治 編『光徳刀絵図集成』便利堂、1943年、巻末に「大坂御腰物帳」の翻刻あり。doi:10.11501/1184136https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184136 
  5. ^ 福永酔剣『日本刀よもやま話』雄山閣出版、1989年10月。ISBN 978-4-639-00924-5 
  6. ^ a b Rodrigues, João (1954). Historia da igreja do Japão / pelo padre João Rodrigues Tçuzzu, S.J. ; preparada por João do Amaral Abranches Pinto. Noticias de Macau. pp. 488-489 
  7. ^ ジョアン・ロドリーゲス 著、江馬務佐野泰彦土井忠生浜口乃二雄 訳『日本教会史 上』岩波書店〈大航海時代叢書 第9〉、1967年。ISBN 4000085093 

--小萩きりく会話2020年3月10日 (火) 17:32 (UTC)[返信]

興味深いお話をありがとうございます。いま名物骨喰藤四郎と伝わる刀剣の同一性については、私の大雑把な理解では、三段階あって、A「足利氏重代の大型刀剣である骨○(かみ?食?)」(『梅松論』『着到』) B「大友氏から豊臣氏へ贈られた脇差である骨喰(Aを大友氏が手に入れて直したものであると自称)」 C「いつの間にか徳川氏にあった脇差である骨喰藤四郎(Bの贋作ではなく真作であると主張)」というイメージです。私の印象では、Aの中で厳密性を求めても構いませんが、物理的に同じ刀剣かどうかより詳細な議論が必要なのは、どちらかといえばAからB、BからCの段階についてであるような感じがします。ただ、あくまで骨喰にあまり詳しくない私の中の印象論ですので、既によく調べてくださっている小萩きりくさんなら、より深い理解があるのだと思います。よろしければ、Aの中について特段厳密さを強くする理由をご教示頂いてもよろしいでしょうか。--Senu会話2020年3月13日 (金) 13:59 (UTC)[返信]
返信 Senuさん、コメントありがとうございます。私のほうの印象でいうと、まずBとCは特に問題なく同じ刀剣の経歴として繋がっている感じです。BとCの間、つまり大坂夏の陣で豊臣家が滅びて骨喰藤四郎が徳川家に渡るという局面には「本阿弥又三郎が骨喰藤四郎を入手して家康の元へ持っていったが要らないといわれ、秀忠のところへ持っていったら喜ばれて褒美を貰った」という比較的有名なエピソードがあります(『駿府記』『関難間記』)。諸説紛々と記事にありますが、ミステリーな部分はもっぱら《本阿弥又三郎はどこからどうやって無傷の骨喰藤四郎を手に入れたのか?》という点に集中していて、つまり仕入れ先の諸説はありますが本阿弥が徳川家に骨喰藤四郎をもたらしたこと自体は特に疑わしい点はないようです。それに何と言っても本阿弥光徳が豊臣時代にスケッチした骨喰の図が残っていて、現存の骨喰藤四郎の姿と一致していますから(『本阿弥光徳刀絵図』)、徳川家が偽物を掴まされたということもないでしょう。
で、肝心のAについてですが、A群は骨喰藤四郎かもしれない刀剣の話ですね。
『梅松論』の「御重代の骨食」は多々良浜の戦いで足利尊氏が「御剣」を二振り帯びていたうちの一つで、普通に読めば薙刀ではなく太刀(サイズは研究者の間でも大小諸説あり)です。
一方、『着到』の「ほねかみ」は、変体仮名で「ほねかみ」表記なので本来どういう漢字を当てるのかわかりませんが、第9代将軍義尚が六角征伐に向かう際の出陣パレードに担ぎ出された「御長刀」です。「かつく(担ぐ)」とあるので薙刀です。尊氏の戦からおよそ150年経っています。
さて、『梅松論』と『着到』が両方とも後の骨喰藤四郎に関する記録だとすると、骨喰は最初太刀だったのが薙刀に直され、秀吉の手に渡る前にまたもや脇差に直されたということになってしまいます。それはさすがにありえないので、福永酔剣は著書『日本刀よもやま話』で、梅松論の作者は骨喰が薙刀だということを知らなかったんだろうと言っています。しかし『梅松論』をよく読むと「御重代」とも書いてあって、これは尊氏以前から足利家に伝わっていたという意味ですが、それなら大友氏が尊氏へ贈ったという話(『大友興廃記』)はどうなった?と、別の矛盾が生じています。この点について福永酔剣『日本刀よもやま話』では、『大友興廃記』と『筑紫軍記』に大友氏が骨喰を尊氏へ贈った話が書いてあるから二対一で『梅松論』の負け、と述べているのですが、後年の『日本刀大百科事典』では何となく『梅松論』のほうを支持しているような記述になっています。(『筑紫軍記』は『大友興廃記』等を元に大阪の本屋が編集・刊行した書物です。)
でも、ここまで来たらそもそも《『梅松論』と『着到』が両方とも後の骨喰藤四郎に関する記録である》という前提のほうが間違っているんじゃ…と思いませんか。江戸時代の故実家土肥経平は『梅松論』と『筑紫軍記』を読み比べて、つまり将軍家には重代の骨食と大友から新しくきた骨啄との二振りがあったのだと結論付けていますが(『春湊浪話』)、真偽はともかく辻褄は合っていますからこのほうが福永酔剣よりマシな気がします。福永酔剣は各資料の内容を一本の時系列で結びたがっているようですけれども、『着到』が正しいから『梅松論』のがミスだろうとか、『梅松論』が正しいから『大友興廃記』のは嘘だろうとかいう福永見解に寄りかかりすぎると、ウィキペディアの読み手は混乱するのではないかと思うのです。現在、概要節の第3~5段落目までわりとそのような傾向だと思われますがどうでしょうか。
目指す方向としては、『梅松論』には「御重代の骨食」というのが載っていてこれこれこう書いてある。『着到』には「ほねかみ」というのが載っていてこう書いてあって福永酔剣は『日本刀大百科事典』で骨喰藤四郎と同一とみなしている。のような切り分けた書き方がすっきりするのではないでしょうか。ここで『梅松論』と『着到』を結び付けて考察しようとするとごちゃごちゃします。そもそも『梅松論』と『着到』に参照関係はないのですから。--小萩きりく会話2020年3月14日 (土) 06:50 (UTC)[返信]
小萩きりくさん、B→Cの同一性には納得いたしました。わかりやすい解説を感謝いたします。
A(『梅松論』『着到』)内部での厳密性にはまだ戸惑いがあります。『大友興廃記』など江戸時代の軍記物の類は、南北朝時代の史料としては適切ではないと考えられるので、『梅松論』と『着到』の比較の議論では持ち出さない方が、混乱が少ないのではないでしょうか(ただ、これは私が福永酔剣の記事をそのまま要約したため、現在の記事の記述に『大友興廃記』の話が入ってきてしまっているので、ご指摘なさったのかとも思います)。
「「御剣」を二振り帯びていたうちの一つで、普通に読めば薙刀ではなく太刀」 これは本当に自明なのでしょうか。古い日本語では、タチ(剣、大刀、太刀)には大型の刀剣類(両刃・片刃・形態を問わず)という意味があり、カタナ(刀、刀子、小刀)つまり小型の刀剣類(両刃・片刃・形態を問わず)と対になる言葉でもあります。その後徐々に「タチ」が現代日本語の「太刀」と同じ狭義の意味に収束していくわけですが、このような移行はある瞬間に突然行われたものではなく、ある時点では両方の語義で用いられていたと思います。『太平記』の時代既にその語義の変遷は完了していたのでしょうか。
また、流布本の『梅松論』刊本は結構誤字が多いです。後醍醐天皇の格言も「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と「義」なのか「儀」なのかよくわからないことになってますし、足利方に組した有力武将の塩冶高貞も塩冶高久とかなっています。他の史料と整合性に難がある場合は、まず誤字を疑うのはそれほど変な姿勢ではありません。
『梅松論』と『着到』に記録される刀剣については、1. 記録者の誤字や記録ミスである(『梅松論』が「骨噛」を「骨食」と誤字した、『着到』が「ほねばみ」を「ほねかみ」と誤字した等々)と2. 足利氏重代の武器として「骨」を頭に冠する刀剣が物理的に二つあった、のどちらかになります。一般的に、必要以上に多くの仮説を立てない方が、ある事柄の説明に対しては好ましいので、物理的にものが二つあるよりは、単に誤字等の方向に考える方が、確実ではないにしても穏やかであると思います。また、この場合は特に専門家の文献の出典がある訳ですから(同一人物に複数ある場合は後年の意見の方が優先されるかと思います)、『梅松論』の骨食と『着到』のほねかみを別のものと主張する現代の専門家の説がない限りは、Wikipedia:中立的な観点#対立する観点との相対的な勢力差を正確に示すから、ウィキペディアとして同等の蓋然性で扱うことは好ましくないと思います。
目指す方向としては、A(『梅松論』『着到』)についての節では、A内部では同一の刀剣である蓋然性が高く、ただ確実ではないぐらいのニュアンスの記述。次に節を分けてBC(現在の骨喰藤四郎と確実に言える刀剣)に関する記述を設け、史料上の初見は脇差として大友氏から豊臣氏に贈られた時であることから書き出し、その後、江戸時代に『大友興廃記』などでBCに足利氏との関わりの伝説が付加されたことで、書籍によってはAと同一視するものもある(が蓋然性は低い)、ぐらいの感じではいかがでしょうか。--Senu会話2020年3月15日 (日) 04:04 (UTC)[返信]
(インデント戻します)Senuさん、丁寧なご考察ありがとうございます。
まずは『梅松論』の「御重代の骨食」について、「普通に読めば薙刀ではなく太刀」という表現は私の説明がよくありませんでした。『梅松論』の骨食に関する記述は「御剣二あり。一は御重代の骨食也。」だけなので、文中にタチやカタナといった言葉は入っていません。単に、長柄の打物武器か長柄ではない打物武器かのうち後者の方という意図で太刀の語を使用しました。混乱させてしまっていたら申し訳ありません。
もっともこれは「御剣」に薙刀が含まれるかどうかという問題にスライドしそうではあります。その点は「多々良浜の戦いの《御剣》とは薙刀の美称では?」という視座で語られた書籍等をみたことがないので何とも言えません。もちろん『梅松論』の他の箇所では長刀や小長刀という武器名称がそのまま登場しています。
私見ながら、合戦絵巻や武者絵を眺めてみると、戦に行く武士は弓を得意とする場合は薙刀は持たないし、薙刀を得意とする場合は弓や箙を持たないように思うのですがどうでしょうか。多々良浜では尊氏は立派な「重藤の御弓」を携えているので同時に薙刀を持っている確率はだいぶ低いと思います。従者に運ばせれば両方持っていけないこともないかもしれませんが、軍記で美々しく描写される武士のいでたちでは、メインウエポンはどちらか一つだけではないでしょうか。
話が変わりまして、目指す方向についてのご提案、大友→豊臣への所有移動の前で節を分けるのは大変よい案だと思いました。でも「A内部では同一の刀剣である蓋然性が高く」の部分は自分としては何かしらやはり引っ掛かるところがあって、結局『梅松論』や『着到』の刀剣と骨喰藤四郎との同一の可能性に対する私の見積もりがSenuさんよりも低いからだろうと感じました。
《『梅松論』の御剣と骨喰藤四郎は同じものである可能性が高い。→『着到』の長刀と骨喰藤四郎は同じものである可能性が高い。→ゆえに『梅松論』の御剣と『着到』の長刀も同じものである可能性が高い。》なら成り立つのですけれど、私の中では《『梅松論』の御剣と骨喰藤四郎は同じものかもしれない。→『着到』の長刀と骨喰藤四郎は同じかもしれない。→ゆえに『梅松論』の御剣と『着到』の長刀は同一の刀剣である蓋然性が高い…?》止まりになってしまっています。どうも上手く説明できなくて申し訳ありません。もっとも私は『着到』と現存刀の関係にはさほど疑いを持っておらず(特に否定する材料がないので)、主に『梅松論』のほうが引っ掛かっています。何はともあれ福永説への対論をということで、これはどうでしょうか。
  • 『梅松論』の「京大本」で当該箇所が「骨食」ではなく「大ハミ」となっている。
先刻Senuさんが『梅松論』のページの中心的な編集者でいらっしゃると気づいたのでまさに渡りに舟だと思いましたが、流布本で骨食が登場する部分は、古本系京大本では「御剣二。一ハ御重代ノ大ハミ也」と書いてあります(『国語国文』33巻9号)。他の古本系の文がどうなっているかは未確認です。
「大ハミ」はホネハミの誤記を疑うこともできますが、一応可能性として『鎌倉年中行事』に載る同名の名刀と関連があるかもしれません(私見)。鎌倉公方に伝わる重代で儀式等に使用されており、そちらは漢字表記「大食」です。『鎌倉年中行事』の最も古い本は1454年のものです。
なお『国語国文』の京大本翻刻を参考にしたもので、鈴木彰『平家物語の展開と中世社会』所収の学術論文『足利将軍家の重代の太刀 ―「御小袖の間」の所蔵品から―』(2006年)という論文があります。その中に「引用(I)『梅松論』では、建武三年(一三三六)三月、多々良浜合戦に臨んだ足利尊氏が「大ハミ」(延宝本「骨食」)他二振りの御剣を、直義が「篠作」を帯していたとされている。」という記述があります引用(I)は京大本の当該箇所)。この鈴木論文は二つ銘などを足利将軍家のレガリアと捉えて研究しているもので『着到』の「ほねかみ」についても少しだけ言及がありますが、骨食の名が載っていない京大本を典拠に論旨を展開しているので『梅松論』の骨食と『着到』のほねかみの関係については一切触れられていません。
『梅松論』にはあまり詳しくないのですが、軍記一般に誤記・誤字・表記揺れ等の多いことは承知しております。誤りでなくとも意図的に、たとえば古態を残す写本でも新しい写本系統の本文が部分的に混入されているなどということは珍しくありませんね。なので当ページへ「『梅松論』の骨食と書かれている部分は本来大ハミという別の刀剣であった」などと書く気にはなれませんが、もし書くなら「『梅松論』の「京大本」では骨食ではなく「大ハミ」という名が記されている」程度には書けるかと思案している次第です。いかがでしょうか。--小萩きりく会話2020年3月17日 (火) 16:47 (UTC)[返信]
小萩きりくさん、色々と文献を紹介してくださって、ありがとうございます。初めて知ることが多く刺激的でした。
騎兵のメインウェポンの数について、武器の使用法は研究者が少なく諸説あるので、確定的なことは言えないのですが、近藤好古『騎兵と歩兵の中世史』は、この時代はちょうど弓射騎兵(弓と打物の両方を持つ)から打物騎兵(打物オンリー)に変わる分岐点の時代だったという説を主張しています。近藤説では、『太平記』などを見る限り、この時代は弓射騎兵であっても馬を走らせたまま弓を射つ機会は少なく、疾走する場合は好んで打物を使う場合が多かったのではないか、ということのようです。弓を使う場合は、馬を歩かせながら、もしくは止めて射ったり、わざわざ下馬をして射つなど、柔軟な使い方をすることが多かったようです。そういう意味では、(近藤説に従う限りでは)この時代の弓射騎兵のメインウェポンは二つ以上と言えるかもしれません。
長刀の馬上使用を描いた絵については、絵巻物に現れる最も早い例の一つが『春日権現験記絵』(目録1309年)巻2第2段で、そこでは弓箭を佩帯しながら長刀を振るう騎兵が描かれています(前掲近藤著作pp. 138–139)。一方、それ以降の絵巻物、たとえば『結城合戦絵巻』(15世紀末)や『真如堂縁起絵巻』(1524年)などに現れる長刀騎兵は、おっしゃる通り弓箭を持たない図で描かれているようです。よって、近藤説によれば、長刀と弓箭の両方を持つ騎兵は、短い間にのみ活躍した過渡期の産物ではないか、とのことです。多々良浜の戦いは1336年ですので、尊氏が長刀と弓箭の両方を佩帯していたとしても、時代的にはおかしくはないと思います。ただ、ここでは名門の武将らしく重代の兵装をしているという設定なので、13世紀ぐらいの古い武家故実に則っている可能性もあり、その場合は長刀ではなく太刀だったかもしれません。
『梅松論』の「骨食」が、古本系統の京大本では「大ハミ」だった、というのは面白い発見ですね。確かにこれは福永説への対抗説になると考えます。尊氏は義詮に京都を任せた後は、鎌倉にいることが多かったので、鎌倉公方の重代の刀剣と何か関係があるのでは、というご推測も一理あると思います。ここまで調査が豊富であれば、構成等お任せいたします。小萩きりくさんなら良い記事を書いてくださると期待しております。--Senu会話2020年3月21日 (土) 17:12 (UTC)[返信]
Senuさん、御信頼を寄せていただきありがとうございます。まだまだ駆け出しですので、これからもご協力を切にお願い致します。お教えいただいた近藤好古『騎兵と歩兵の中世史』、図書館にあるのを見つけたので借りてきました。「春日権現験記絵」の左の小脇に弓を抱えている?薙刀武者を見ながら「おぉう…」となっているところです。いろいろ示唆に富んだ本でしたのでゆっくり読んでみます(います)。と言うわけでこれから一層勉強しますということで何卒ご容赦ください。「ほねかみ」に関する詳しい情報などはだいたい福永酔剣の著書ぐらいしかなさそうなので、何にせよ福永著書が典拠の中心になるのは変わらないです。--小萩きりく会話2020年3月24日 (火) 10:26 (UTC)[返信]

提案 ところで長らくSenuさんにお付き合いいただいて検討していた議題は、初めに①②と提示した②の方に係るものだと思うのですが(というか私はそのつもりでいたのですけれども)、①の方も、一週間ほど待ってみて異論を提起される方がおられなければ併せて本文を書き直したいと思っております。①の方の私の主張は平たくいうと《骨食と書いて「ほねかみ」とは読まないのではないか。「ほねかみ」は「骨食」の異称に当たるかもしれないが、「古称を骨食(ほねかみ)と言い…」と読み仮名のようにしてしまうと問題があるのではないか》というものです。①・②とも引き続きご意見お待ちしております。--小萩きりく会話2020年3月24日 (火) 10:26 (UTC)[返信]

二週間近く経ちましたが他の方のご意見もありませんでしたので、これより節分け、思いついた部分での編集などさせていただきます。ありがとうございました。--小萩きりく会話2020年4月6日 (月) 14:20 (UTC)[返信]

文化財としての名称記載のお願い[編集]

解決済み必要な情報が記載頂けたため。--遡雨祈胡会話2020年9月23日 (水) 21:57 (UTC)[返信]

重要文化財として指定されている以上、重要文化財としての名称の記載があったほうが自然と考えております。どなたか文化財としての名称を当時の官報から記載できる方はいらっしゃいますでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年6月9日 (火) 21:56 (UTC)[返信]

返信 『官報』大正第3799号・文部省告示第237号による情報と、当該官報のNDLデジタルコレクションへのリンクを追加いたしました。体裁調整等はお任せいたします。--Senu会話2020年7月6日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
コメント その、「薙刀直シ刀 (骨喰)無銘傳粟田口吉光 附白鞘 德川家達寄進ノ鞘書アリ」なのですが、旧国宝指定時は間違いなくその名称なのですけれども、現在多少変わっている可能性はありませんか。と、いうのは、文化庁の国指定文化財等データベースの情報をみますと、今は白鞘の「附(つけたり)指定」が無いからです。北野天満宮の鬼切こと「鬼切丸 別名 髭切」が戦後の文化財保護法施行のタイミングで、戦前にはあった「附 太刀箱一箇」を名称から外されたと髭切の記事に書いてあるので、骨喰藤四郎もそのパターンに当てはまりはしないかと。鬼切も同データベースによれば現在「附指定」がありません。近くの図書館に官報情報検索サービス(昭和22年~現在分)があるので、それで判明するかどうか分かりませんが調べてこようかと思っています。--小萩きりく会話2020年7月6日 (月) 15:39 (UTC)[返信]
コメント お待たせ致しました。平成12年6月時点のデータで、指定名称は「薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光   (名物骨喰藤四郎)」。縦書きで粟のとなりに括弧の頭が来る感じ。附はありません。出典は「文化庁・監修『国宝・重要文化財大全』別巻 毎日新聞社・発行」(2000年)です。ちなみに官報情報検索サービスでは何も引っ掛かってきませんでした。『国宝・重要文化財大全』の別巻は「官報告示に準拠した指定名称」を載せている巻で、さらに指定後に作品名称の変更・追加指定・現状変更があった場合は官報告示日とその内容も載せているのですが、骨喰藤四郎については大正14年4月24日の指定のみ。特に変更は載っていませんでした。官報情報検索サービスの結果と考え併せて実際官報に何か告示があったわけではないのでしょう。でも「附 白鞘」は無くなっている…。謎が謎のままなのですがとりあえず出典として信用できる書籍だと思うのでご報告しておきます。編集はどうしたらいいでしょうか。--小萩きりく会話2020年7月17日 (金) 12:33 (UTC)[返信]
提案 調査いただきありがとうございます。今使用されている方を主に記載して、附に関しては注釈か何かで記載するので如何でしょうか。--遡雨祈胡会話2020年7月17日 (金) 14:23 (UTC)[返信]
コメント 小萩きりくさん、この大変な中、図書館まで足を運んで調査して下さってありがとうございました。皆様、どの情報が最も正確なのか、なぜこのような違いが起きたのか、おそらくこの手の話題にウィキペディアンで一番詳しいのは、Uraniaさんだと思います。ですので、Uraniaさんに会話ページで尋ねて参りました。ご多忙な方なので、ご回答頂けるかわかりませんが、1週間ほど待ってみてもよろしいでしょうか。--Senu会話2020年7月19日 (日) 01:11 (UTC)[返信]
コメント 了解致しました。そうですね、記事に書けないこともなさそうですが何だかもやっとしていますから、できればお詳しい方に伺いたいですね。--小萩きりく会話2020年7月19日 (日) 03:12 (UTC)[返信]
この件について検証可能な資料は、小萩きりくさんの挙げてくださったものでほぼ尽きていると思います。刀剣の文化財指定名称が、官報告示を経ずに変更されているのはなぜかということについては、「検証可能な資料がなく不明である」というのが結論になるかと思います。ここで私の憶測を述べても、ウィキペディアの方針で禁じられている「独自研究」にしかなりませんので、それは差し控えます。ご期待に沿えず申しわけありませんが、以上です。--Urania会話2020年7月20日 (月) 09:21 (UTC)[返信]
返信 なるほど、原則的に『国宝・重要文化財大全』別巻が、2000年までの国宝・重要文化財の同年時点での名称について、最も信頼性の高い資料ということですね。そして、理由の詳細は不明であるものの、官報告示がないまま名称が変更される事例が現実に存在するという点、承知いたしました。理由の問題はあくまで従ですし、今後どのように対応すべきかわかったという主な問題が解決した点で、本当に助かりました。どうもありがとうございました。--Senu会話2020年7月20日 (月) 13:10 (UTC)[返信]
賛成 名称変更理由が検証不可能な以上、遡雨祈胡さんのご提案が的を射たものと示されたと思います。本文に『国宝・重要文化財大全』別巻での記載名称を記し、注釈には推測等を交えず「ただし、旧国宝指定時の官報における名称は〜だった」のように坦々と事実のみ書くのが良さそうですね。--Senu会話2020年7月20日 (月) 13:10 (UTC)[返信]
Uraniaさん 初めまして。コメントをお寄せいただき大変ありがとうございます。なるほど、それだと指定名称を知りたいなら、国会図書館デジタルコレクション等で重要文化財指定時の官報がみられる場合でも必ず信用のおける新しい資料で確認すべきということになりましょうか。おかげで方針としてすっきりしました。--小萩きりく会話2020年7月20日 (月) 13:41 (UTC)[返信]
賛成 新しい指定名称を記し、指定時の官報のほうは注釈の方針に賛成です。SenuさんもUraniaさんへのメッセンジャーになっていただきましてありがとうございました。--小萩きりく会話2020年7月20日 (月) 13:41 (UTC)[返信]
お疲れ様です。諸々ご対応いただきありがとうございます。特に現状反論、ご意見などなさそうなので、一週間程度見て何もなければ加筆するのが良さそうですね。ただ、現状書かれているものが上下2行になる箇所があるものなので、可読性も考えてプレビューなどで見づらいようであれば地の文に書いてもいいかもしれません。ご一考いただけますと幸いです。--遡雨祈胡会話2020年7月22日 (水) 17:57 (UTC)[返信]
確かに、二行になると読みにくい場合がありそうです。スマホ環境での見え方とかも考慮する必要があるかもしれません。下のはどう見えるでしょうか。ところで、やってみて驚いたのですが、efnとかrefnestとかの注釈テンプレートの内容に半角等号(=)が含まれているときは、内容の前に1=を付ける必要があるんですね。単純に官報名を注釈でくくって試そうと思ったらエラーが出たので、調べてみて今はじめて知りました…。--Senu会話2020年7月23日 (木) 05:06 (UTC)[返信]

重要文化財としての指定名称は、「薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光   (名物骨喰藤四郎)[注釈 1]

  1. ^ (旧)国宝指定時の『官報』による品目名は、「薙刀直シ刀(骨喰)無銘傳粟田口吉光附白鞘 德川家達寄進ノ鞘書アリ」。

(インデント直し)注釈形式でも大きく読みやすさが損なわれるほどでもないですが、両方とも本文に書いた方が可読性は高そうな気もしますね。特にスマホでは。注釈が増えすぎるとクリックして読むのが大変というのもありますし。最終的な判断はお任せいたします。--Senu会話2020年7月23日 (木) 05:23 (UTC)[返信]

コメント スマホでの可読性という問題があるのですね。それだと「無銘」以下 font-size:smallをつけてしまったんですけれど外したほうが良さそうです。もし本文に入れるとしたら今は冒頭に記述されていますが近現代の節でしょうか。ノート:後藤藤四郎のinfoboxの案を拝見いたしました。infoboxが導入されるとそこにも指定名称があるのですよね。--小萩きりく会話2020年7月24日 (金) 15:38 (UTC)[返信]
コメント それと話題が遡ってしまって申し訳ありませんが、重要文化財の指定名称調査には『国宝・重要文化財大全』別巻の他にも、国宝・重要文化財目録編纂会編『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』上・下(1999年、ぎょうせい)という本も使えそうです。東京国立博物館資料館で配布している「調べ方ガイド1 日本の国宝・重要文化財」というペーパーによれば正式名称を載せているとのこと。行った図書館になかったため未見ですが、CiNiiで検索したところ大学図書館ではそこそこ所蔵しています。ご参考まで。--小萩きりく会話2020年7月24日 (金) 16:03 (UTC)[返信]
テンプレートを使った場合、やろうと思えば両方書くことはできなくはないと思います。
薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光   (名物骨喰藤四郎)
※(旧)国宝指定時の『官報』による品目名は下記。
薙刀直シ刀(骨喰)無銘傳粟田口吉光附白鞘 德川家達寄進ノ鞘書アリ
ただテンプレートに入れる情報としては多すぎると思うのと、主観ですが可読性が一番低いと思うので、旧国宝指定時の名称だけ近現代の節で書いてしまって、テンプレートに入れる際は最新のものだけ入力するのが混乱を招かないかなと思います。
いずれにしても、慌ててあれこれする話題ではないので、できた人がまず『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』を調べるのが良さそうですね。ログが見づらくなるので簡単ですが今までの内容と比較も兼ねて表にします。
指定名称 文献 出版年
薙刀直シ刀(骨喰)無銘傳粟田口吉光附白鞘 德川家達寄進ノ鞘書アリ 『官報』大正第3799号・文部省告示第237号 1925年(大正14年)4月24日
薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光   (名物骨喰藤四郎) 『国宝・重要文化財大全』別巻 2000年(平成12年)6月
薙刀直シ刀無銘伝粟田口吉光   (名物骨喰藤四郎) 『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』 1999年(平成11年)4月

三段目追記 --Senu会話2020年7月26日 (日) 13:41 (UTC)[返信]

調整は適当に枠を増やして表の外に署名を入れるなり<del></del>を使うなりして分かるように調整をお願いします。--遡雨祈胡会話2020年7月24日 (金) 17:03 (UTC)[返信]
すみません、順番を誤りました。--遡雨祈胡会話2020年7月24日 (金) 17:05 (UTC)[返信]
他にも正式名称を載せている文献があるんですね。近くの図書館にあるみたいなので、明日調べてきます。--Senu会話2020年7月25日 (土) 06:31 (UTC)[返信]
情報 『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』を確認いたしましたが、表記は細かい位置を含めて『国宝・重要文化財大全』別巻と同じでした。両書とも「(名物骨喰藤四郎)」のうち「(」の位置は「粟」の横に来て、「名」は粟田の粟と田の中ほどの横に来る形です。名称の変更については、こちらも官報の告示があれば載っているはずなのですが、骨喰についてはやはり一切記載されておらず、謎のままです。
他の作品についても、字下げ位置も含めて、正式名称の細かい形式も両書でぱっと見た感じ差異がないですね。たとえば、蛍丸も、太刀銘来国俊 永仁五年三月一日となっていて、両書とも「永仁」の前に全角スペースが1つ入っています。三日月宗近については、「附」の後につくスペースが『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』では半角で『国宝・重要文化財大全』別巻では全角になっているのですが、前者の書籍でも他の作品については全て「附」の後に全角スペースが用いられているので、多分『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』側の「三日月宗近」項固有の誤植だと思います。あと、刀剣類で例があるのかはわかりませんが、「ト書」は強制改行せずに組版上の適当な位置で改行するようです(htmlでいえばbrを使わずにブラウザに改行を任せる状態)。たとえば梵鐘(京都方広寺) - 国指定文化財等データベース(文化庁)のト書だと、『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』では「豊臣秀頼、冶」(改行)「工名」となっていて、『『国宝・重要文化財大全』別巻』では「豊臣秀頼、」(改行)「冶工名」となっていました。
書籍の全体の印象としては、『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』にある情報は全て『国宝・重要文化財大全』別巻に載っていて、前記した通り正式名称の細かい形式もおそらく差異がないので、基本的に1年新しい『国宝・重要文化財大全』別巻の方さえ参照すれば良さそうです。組版についても、出版年度が1年しか違わないのに『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』は結構古い雰囲気で、『国宝・重要文化財大全』別巻の方が読みやすいです。ただ、『国宝・重要文化財大全』別巻は判型が非常に巨大なので、保管や取り扱いでは『国宝・重要文化財総合目録 美術工芸品編』の方が軍配が上がるかもしれません。--Senu会話2020年7月26日 (日) 13:41 (UTC)[返信]
天気も良くない中、詳しく調査していただきありがとうございます。書式といいますか、二行割りの改行なども一致ということですのでその形のまま記事にするのが良さそうです。両書照合の情報は大変参考になります。これから個別の刀剣について調べる場合にどちらの本も使えそう、というのが何よりの収穫ですね。--小萩きりく会話2020年7月26日 (日) 16:14 (UTC)[返信]
どういたしまして。どちらか片方しか所蔵していない図書館も結構あるようなので、どちらかだけ参照すれば良い、と言うのは確かに便利な事実ですね。--Senu会話2020年7月27日 (月) 14:42 (UTC)[返信]
すみません、関係があるかどうかは分からないのですが、髭切が似たような感じで昭和二年の名称と文化財保護法施行後で名称が異なるようです(ただしそこに関する出典がないので、確認の必要はありますが)。参考までに。--遡雨祈胡会話2020年8月6日 (木) 10:06 (UTC)[返信]
『国宝・重要文化財大全』別巻 p. 184を確認しましたが、髭切も官報による変更履歴なしで附指定が消滅していますね。国の指定がこれでいいのでしょうか……うーむ。--Senu会話2020年8月6日 (木) 12:33 (UTC)[返信]
独自研究なので記事には書けませんが、間に存在する第二次世界大戦の影響かもしれません。その場合はもうどうしようもない気がします。--遡雨祈胡会話2020年8月6日 (木) 12:54 (UTC)[返信]
複数の工芸品でそうなっているということは、逆に言えば何か法則がある訳で、おっしゃるように第二次世界大戦の影響の可能性など、文化庁にも止むに止まれぬ事情があったのかもしれませんね。--Senu会話2020年8月7日 (金) 14:44 (UTC)[返信]

(インデント直し)基礎情報 日本刀のテンプレートを導入させていただいたついでにといっては何ですが、『国宝・重要文化財大全』別巻を出典に採って、重要文化財指定名称の説明を近現代の節に加筆させていただきました(注釈ではなく本文へ)。最上部のテンプレートに名称が入っているから上の方でなくてもいいかと決めつけて、冒頭でなく本文の最下部にまとめてしまいましたが、問題がありましたらご指摘ください。できるだけシンプルに事実のみ書いたつもりです。--小萩きりく会話2020年8月23日 (日) 18:24 (UTC)[返信]

お疲れ様です。ご対応いただきありがとうございます。記載頂きました内容を確認いたしました。当方は問題ないと思います。強いて言えばページ番号は対応できる方ができるタイミングで補足した方が良さそうですね。1-2週間ほど様子を見て問題がなさそうであれば、別の日本刀で似たようなケースがあるかもしれないという話を頭に残しつつも、この記事でのケースは完了にしても差支えないと思われます。--遡雨祈胡会話2020年8月24日 (月) 03:00 (UTC)[返信]
ご確認いただきありがとうございます。ページ番号うっかりしていました。補足致しました。--小萩きりく会話2020年8月24日 (月) 04:34 (UTC)[返信]
補足いただきありがとうございます。--遡雨祈胡会話2020年8月24日 (月) 09:35 (UTC)[返信]
記載いただけて現時点で問題はなさそうなので本件はクローズさせて頂きます。また何かございましたら新しい節でよろしくお願いいたします。--遡雨祈胡会話2020年9月23日 (水) 21:57 (UTC)[返信]