ノート:高原院

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義直と側室について質問[編集]

本文の文脈から判断つきかねたのですが、義直が側室を置こうとしなかったのはいつの話で、土井利勝が公命により尾張藩存続のため側室を置くことをすすめたのはいつなのでしょうか?春姫が「義直の2子と江戸に移るまで」とあるように、光友は春姫の生前にすでにおり、義直の側室であるその母も当然いたと思うのですが。 --60.37.243.115 2008年6月6日 (金) 13:56 (UTC)[返信]

ご指摘有難うございます。土井利勝云々は『金府紀較』などに載っている話で、元和九年(1623)のことと伝えられています。すなわち結婚後九年、義直23歳、春姫21歳。九年経っても子供が生まれる気配が無いので、まず家臣が、ついで生母の相応院が側室を置くことを勧めたのですが、義直が難色を示したため、ついに「公命を帯びて~側室を置かるべし」となるわけです。そして招かれたのが東福門院和子に使えていたおさいの方。
ちなみに光友の母お尉の方には諸説あり、湯殿で義直がムラムラときて生まれたとか、義直が村を通る時、彼女がその父を湯盥ごと抱えて家の中に連れて行った、その力強さに感銘したとか、いやいや殿様の前に飛び出した大猪を素手でとめたその力を賞嘆したなど色々あります。義直は「若さゆえの過ち」を深く恥じて、我が子に2歳になるまで会いませんでした。この女性はお城には入らず、義直の母と暮らしたそうですので、側室とはいえ目立つ存在ではありませんでした。
まだ若いうちに「子供ができない」とされた春姫の胸中を思うと、胸にせまるものがありますが、大名にとってお世継ぎを得ることはパブリックな問題であり、また当時将軍家光にも世継が生まれておらず、万々が一を考えて周囲も少しあせったのでしょうか。--松貝舟 2008年6月7日 (土) 17:38 (UTC)[返信]
ええと、ごめんなさい。時系列でゆくと
元和9(1623)年 土井利勝が側室を置くことを薦める
寛永元(1624)年 おさいの方が側室となる
寛永2年 お尉の方が光友を産む。しかし義直はこれを恥じて2歳になるまで認知しなかった
寛永3年 おさいの方が京姫を産む--松貝舟 2008年6月7日 (土) 17:50 (UTC)[返信]

丁寧な解説ありがとうございます。こちらでもあらためてチェックしてみます。本文では段落を改め年代と出典を交えて過程(9年間子供ができなかったとか)を書くとわかりやすいかもしれませんね。たいへん詳しそうなので松貝舟さんが書いてくださると嬉しいです。--60.37.243.115 2008年6月8日 (日) 01:05 (UTC)[返信]

アドヴァイスありがとうございます。確かにそうした方が読む人にわかりやすいですよね。やってみます--松貝舟 2008年6月11日 (水) 16:43 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

高原院へ改名の上、春姫を曖昧さ回避記事にすることを提案します。同名の人物のうちで飛び抜けて有名ということもなさそうです。--エンタシス会話2015年10月3日 (土) 02:31 (UTC)[返信]

改名しました。--エンタシス会話2015年10月10日 (土) 06:57 (UTC)[返信]