ハダ (女真国家)

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歴代ハダ部主/ハダ国主
即位 退位/死歿
部主
初代 ワンジュ 嘉靖13(1533)? 嘉靖31(1552)
二代 ワン 嘉靖31(1552)? ⇥ 嘉靖37(1558)?
国主
初代 ワン ⇥ 嘉靖37(1558)? 万暦10(1582)
二代 フルガン 万暦10(1582)? 万暦11(1583)?
三代 ダイシャン 万暦16(1588)? 万暦19(1591)
四代 メンゲブル 万暦19(1591)? 万暦28(1600)
末代 ウルグダイ 万暦29(1601)? 万暦30(1602)?

ハダ (満文:ᡥᠠᡩᠠ, 転写:hada, 漢語:哈達) は明朝末期に存在した海西女真部族およびその部落の一 (→哈達部)、[1]また同部落のハダナラ氏が樹立した国家 (→哈達國)。一族が代々定住した哈達河畔 (現遼寧省西豊県小清河) に因むとされる。[2]

広順関 (南関) を通って明朝に朝貢していた。[3]

ウラ、イェヘ、ホイファとともにフルン四部 (明朝からは海西女直と総称された) を構成してその一翼を担ったが、ヌルハチに敗れ、マンジュ・グルン (満洲国、後の後金) に併呑されて滅亡した。

略歴[編集]

前史[編集]

ナラ氏の始祖であるナチブルが樹立した国家・フルン・グルン (扈倫國)は、明朝後期、ナチブルの孫・ギヤマカの代にトクトア・ブハ・ハーンの侵攻をうけて已に虫の息であった。一説にはこの頃にギヤマカの四子・スイトゥン (四世) の一族がハダ地方へ移住したとされる。

勃興[編集]

スイトゥンの子 (一説に孫)・ケシネ (五世) は明朝嘉靖初に勢力を伸ばし、諸部のうちでも強勢を誇った。宗主明朝に事えて手柄をあげ、左都督に任命されたが、後に族人により殺害された。[4]

ケシネの子・ワンジュはハダ地方へ逃れて後に同地方の部主となり、明朝から都督僉事に任命された。イェヘ部が叛乱を起すとその部主を執えて誅戮し、朝貢の勅書700通を横奪して、イェヘに帰属する13の部落を支配下に置いたが、後に部落の群衆によって殺害された。

同じ頃、ケシネの長子・チェチェム (ワンジュの兄) の子・萬 (王台) はシベ部[5][6]のスイハ[7]という城 (現吉林省吉林市西方)[8]へ逃れていた (一説にはシベ部は祖先・ナチブルの出生地)。子・ボルコン・シェジン[9]が殺された父・ワンジュの敵を討って仇をとり、スイハへ従兄・萬を訪ねると、萬はハダに迎えられ部主に推戴された。

建国[編集]

は部内の民衆を利用して近隣諸部を略奪させ、遠交近攻外交を進めた。ハダの勢力はいよいよ強まり、機は熟せりと萬はハダを以て国とし、自ら汗(ハン)を称した。イェヘ、ウラ、ホイファ、および建州部 (後金の前身) に帰属していた渾河部は「盡(ことごと)ク皆之(これ)ニ服(したが)ツ」たという。

この頃、ヘトゥアラ周辺に居住しニングタベイレを称していた、清朝興祖・フマンの三子・ソオチャンガ[10]は、自らの子・呉泰に萬の娘をもらっている。『清史稿』はこれについて、蓋し萬 (ハダ) の兵力を充てにし、抗争関係にあったドンゴ (董鄂)[11]部を牽制する狙いがあったのだろうと推察している。[12]

事明[編集]

萬の代には、建州部を領いる王杲 (ヌルハチの祖父、または曽祖父とも) が虎視眈々と明朝の辺境を窺った。遠く西の韃靼との策応を企図したが、萬はその聯繋を阻止し、明朝はその働きを評価して、萬に祖父・ケシネの都督の職位を承継させた。

隆慶年間、王杲が明朝の辺境を侵すと、開原 (現遼寧省鉄嶺市開原市) 兵備副使・王之弼の檄文をうけた萬は建州部へ赴き、撫順関 (現遼寧省撫順市) で王杲と不可侵の盟約を締結した。

万暦1 (1573) 年、遼東に移徙してきたトゥメトのドゥーレン・センゲ・ホンタイジ[13](小黄台吉、アルタン・ハーン長子) に明朝辺境部の略奪をもちかけられたが、萬はこれを拒否した。ホンタイジ (小黄台吉) と不可侵の盟約を締結して幾許も経たない頃であった。

万暦2 (1574) 年、王杲が叛乱。萬に遼東巡撫・張学顔から王杲捕縛の檄文がくだった。

万暦3 (1575) 年、王杲が捕縛され、京師 (北京) に送還された。明朝はその働きを評して萬を右柱国 (勲官の一種)、龍虎将軍に封じ、女真における覇者の地位を承認した。ハダの領土は、東のウラおよびホイファ、南の建州、北のイェヘまで延袤[14]千里の広さに達したという。

衰頽[編集]

しかし萬は晩年、生活が乱れ、部民は堪えられず、度々イェヘに亡命する者が現れ、国勢も徐々に衰頽した。

万暦10 (1582) 初代国主・萬が死に、第二代国主・フルガンが即位後一年足らずで病逝。フルガンの子・ダイシャンが即位したが、メンゲブルが地位を簒奪し、ついで萬の子らが互いに骨肉相喰む争いが起った。その頃、イェヘと満洲が勃興し、ハダは国力を消耗してフルンにおける優位を失った。古勒山の戦では、九部聯合軍の主力として闘うもマンジュに敗れた。

滅亡[編集]

万暦27 (1599) 年、マンジュのヌルハチがハダ・ホトン (哈達城) を攻略し、メンゲブルが投降すると、ヌルハチはメンゲブルを膝下において訓育した。ここにハダは事実上マンジュに併呑され消滅した。メンゲブルはその後、ヌルハチ暗殺を試みたが失敗におわり、処刑された。

万暦29 (1601) 年、ヌルハチは娘をメンゲブルの子・ウルグダイに降嫁した。のちに明朝が使者を寄越し、マンジュがハダ併呑を企んでいると詰責すると、ヌルハチはウルグダイを帰還させ、ベイレの地位を与えてハダの当主に据えた。イェヘのナリムブルはこれを聞くや蒙古諸部と策動してハダを襲撃し、勅書60通を横奪した。ハダで飢饉がおこると、ウルグダイは困窮のためマンジュに投降し、ハダは名実ともに滅びた。

脚注[編集]

  1. ^ “ᡥᠠᡩᠠ hada2”. 新满汉大词典. 新疆人民出版社. p. 374. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/imageviewer/detail?dicId=72&imageFileName=374 2023年7月17日閲覧. "[名] ❶〈地〉哈达:hada hoton 哈达城。❷ 哈达 (部族名。明末海西女真部族之一)。" 
  2. ^ 维基百科「哈达 (海西女真)」より引用。典拠なし。
  3. ^ “列傳10”. 清史稿. 清史館. "哈達為扈倫四部之一,明通稱海西。哈達貢於明,入廣順關,地近南,故謂之南關。" 
  4. ^ “萬,納喇氏”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#萬,納喇氏 2023年7月17日閲覧. "克什納,嘉靖初掌塔山左衞,於諸部中最強强,修貢謹,又捕叛者猛克有勞,明授左都督,賜金頂大帽;既,爲族人巴代達爾漢所殺。" 
  5. ^ シベ部:ᠰᡳᠪᡝᡳ ᠠᡳᠮᠠᠨ, sibei aiman, 錫伯部。現在のシベ族はこの後裔とされ、同族間では満洲語の方言の一つとされるシベ語が話される。
  6. ^ “ᠰᡳᠪᡝ Sibe”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 500. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/imageviewer/detail?dicId=6&imageFileName=500 2023年7月17日閲覧. "〔名〕① 锡伯,清初部落名,今锡伯族。" 
  7. ^ スイハ:ᠰᡠᡳᡥᠠ, suiha, 綏哈
  8. ^ “ᠰᡠᡳᡥᠠ suiha”. 新满汉大词典. 新疆人民出版社. p. 693. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/imageviewer/detail?dicId=72&imageFileName=693 2023年7月17日閲覧. "[名] ❷〈地〉绥哈城 (位于今吉林省吉林市西约五十里)。" 
  9. ^ ボルコン・シェジン:ᠪᠣᠯᡴᠣᠨ ᡧᡝᠵᡳᠨ, bolkon Sejin, 博爾坤・舎進 (滿洲實錄、八旗滿洲氏族通譜、清史稿)。维基百科「哈达那拉氏」では「博尔坤舍进」を「博尔坤+舍+进」で「博尔坤がベイレ即位 (进) を放棄した (舍)」と現代語訳されているが、満文版の『滿洲實錄』にある通り、「博尔坤舍进」で人物名 (二名、或いは人名+官職か)。簡体字では「舎shè」と「捨shě」とが「舎」に統合されている為、それで勘違いしたか。
  10. ^ ソオチャンガ:ᠰᠣᠣᠴᠠᠩᡤᠠ, soocangga, 索長阿
  11. ^ ドンゴ:ᡩᠣᠩᡤᠣ, donggo, 棟鄂 (滿洲實錄)、董鄂 (清史稿)。
  12. ^ “萬,納喇氏”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#萬,納喇氏 2023年7月17日閲覧. "興祖諸子環居赫圖阿喇,號「寧古塔貝勒」,與董鄂部構釁。興祖第三子索長阿爲其子吳泰娶萬女,蓋嘗乞兵於萬以禦董鄂部。" 
  13. ^ “萬,納喇氏”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#萬,納喇氏 2023年7月17日閲覧. "土默特徙帳遼東,……土默特弟韋徵與萬為婚,其從子……小黃台吉……為盟,約毋犯塞。居無何,小黃台吉要萬犯塞,萬不可,乃罷,時為萬曆元年。" 
  14. ^ “えん ぼう【延袤】”. 大辞林. 三省堂書店. "〔「延」は横のことで東西、「袤」は縦のことで南北の意〕土地の広さ。また、長さ。" 

参照文献・史料[編集]

書籍・辞典[編集]

  • 愛新覚羅・弘昼, 西林覚羅・鄂尔泰, 富察・福敏, (舒穆祿氏)徐元夢『八旗滿洲氏族通譜』(1744年) (中国語)
  • 編者不詳『大清歷朝實錄 (清實錄)』「滿洲實錄」(1781年) (中国語)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻223「萬,納喇氏」清史館 (1928年) (中国語)
  • 安双成『满汉大辞典』遼寧民族出版社 (1993)
  • 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社 (1994)

Webページ[編集]