ビートルズ・ファン・クラブ

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ビートルズ・ファン・クラブは、1965年1月から1972年3月まで活動していた日本におけるビートルズ公認ファン・クラブである。略称はBFC。なお、現在の日本における公認ファン・クラブ、ザ・ビートルズ・クラブ(略称BCC)と直接的な関係はない。

解説[編集]

1964年8月1日、ビートルズの初主演映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が東京・築地の映画館、松竹セントラル劇場で封切りされた。当時の劇場支配人だった下山鉄三郎は、熱心に繰り返し観に来るファンの姿を目の当たりにし、ファン・クラブの設立を思い立つ。公開期間中に入会申込書を配布し、ファンの名簿の作成を行うとともに、劇場の応接室を会員に開放した。中高生が多かったこともあり、入会費、会費は無料[注釈 1]とし、下山が自腹で運営を行った。

1965年1月2日から冬休みに合わせて松竹セントラルで「再びビートルズを聞こう!」というコピーの下、『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の再上映を行った[注釈 2]。最終日となった10日に会員数236名でBFCが正式発足した。20日には会報第1号『ビートルズファンクラブの皆様へ』[注釈 3]を発行した。朝日新聞など一般メディアでも取り上げられたこともあり、会員数は2月には2000人超、3月には3000人超と急激に増えていった。3月14日には松竹セントラルで初めてのファン向けイベント『第1回FCの集い』を開催した。4月29日には来日中のピーター&ゴードンを迎えて、松竹セントラルで『BFC第2回大会』を開催した。6月30日にはビートルズのMBE叙勲を祝い、『BFC臨時大会』を開催した。会員数はその後も増え続け、9月には8000人を超えた。

1966年3月4日、ビートルズが夏に来日することが報道されると、入会申し込みが大量に増えることが予想されたため、4月1日から新規入会受付を一旦停止した。ビートルズ来日公演最中の7月1日、下山がビートルズの広報担当トニー・バーロウから日本の公認ファン・クラブとしての運営を要請され、受諾した[注釈 4]。ここからイギリスの「オフィシャル・ビートルズ・ファン・クラブ」の日本支部としての活動が始まった。ところがビートルズ来日の熱気が冷め、さらに新規入会および継続会員から会費を徴収することが決まると、ピーク時8600人を超えていた会員数は一気に激減、3000人を切ってしまった[4]。12月28日には関西地区初のイベント『BFC忘年試写会』を大阪みなみ松竹座で開催した。

1967年になると、4月に『春のビートルズの集い』、8月に『BFC42年度第2回大会』、年末には『ビートルズ映画会』とイベントは行ったものの、ニュース不足のため[注釈 5]会報の発行は滞りがちになってしまった。

1968年1月、下山の異動に伴い、活動を一時停止せざるを得なくなった[注釈 6]。10月、事務局のボランティア・スタッフで当時学生だった新井憲子、小津千恵子、白井敬子が運営を引き継ぎ[注釈 7]、活動を再開した。12月に会報の名称を『REPORT』に改めて発行。この時点での会員数は約1000名であった[7]

1969年になると、会報の発行はほぼ毎月行えるようになったが、イベント開催やファン同士が交流できる場の提供は行うことができず、会員数も800名を切ってしまった[8]

1970年4月、東芝音工のビートルズ担当ディレクターだった水原健二は活動が先細りとなってきたBFCの状況を危惧し、当時大学生だった香月利一、鳥居幹雄、森下茂男に協力を要請、新スタッフとして迎えた[9]。会報の形式を一新し、会員獲得のプロモーション活動を行おうとしていた矢先、ポール・マッカートニーの脱退が報じられた[注釈 8]。会員獲得活動の一環として、マッカートニーの復帰を求める『ゲット・バック・ポール・デモンストレーション・パレード』を企画、4月18日に実施した。参加者は少なかったが、マスコミに大きく取り上げられ、スタッフも積極的に番組へ出演した[9]。6月には新宿体育館で『6・6ビートルズ総括大会甲虫眼玉空間無限祭』を開催、一般客を含め約2000名の参加者を集めた。しかし、月一回発行を目指していた会報もニュース不足と資金難によって発行回数が減ってしまい、他クラブと比較しても魅力的な活動が乏しかった[注釈 9]ため、一時的に1000名程まで増えた会員数も減少の一途をたどっていった。

1971年4月、ビートルズの解散を認める判決が確定すると、1972年1月、「オフィシャル・ビートルズ・ファン・クラブ」の解散が決定[注釈 10]。財政的に活動の存続が厳しい状態に陥っていたBFCも解散を決めた。3月1日、会報最終号の発行を以って活動を終了した[13]

沿革[編集]

主な活動内容[編集]

  • 広報:会報の編集・発行。
  • イベント:ファンの集い、映画会、レコード・コンサートの企画・開催。
  • その他:ビートルズに関する国内外の情報の収集・翻訳・執筆活動、グッズ製作販売など。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1965年6月から会員証発行費用として100円を徴収することになった[1]
  2. ^ 午前中2回のみの限定上映。午後からはロードショー公開中のアメリカ映画『暴行』の通常上映だった[2]
  3. ^ 第3号より『BFCレポート』となる。
  4. ^ それまでは、1965年3月に当時専門学校生だった竹内映が主宰する「レッツ・ゴー・ビートルズ(LGB)」が公認を受けていた[3]
  5. ^ 1966年8月末を以ってコンサート活動を停止してしまったため、グループとしての活動情報が激減していた。
  6. ^ 松竹セントラルにあったBFC事務局は、前年12月31日に閉鎖していた[5]
  7. ^ 下山は会長として残り、秘書だった国際部の畑皎子を含めた5人体制となった[6]
  8. ^ 1970年4月10日、マッカートニーがグループを脱退する意向であることがイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられた。これはアルバム『マッカートニー』のリリース前にプレス向けに配付された、マッカートニー自身が用意した資料に基づいた記事であった。一問一答形式の資料の中には「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」とあり、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた[10][11]
  9. ^ ビートルズ・シネ・クラブは1969年2月より会報『The Beatles』を冊子化し、8月からは毎年『全国5都市縦断ビートルズ・フェスティバル』を開催していた。
  10. ^ 代表のフリーダ・ケリーがアップル本社を訪れ、ジョージ・ハリスンリンゴ・スターが同席する会議に出席。クラブの仕事を続けられないことを表明すると、ハリスンが活動終了を宣言した[12]
  11. ^ 第14号の発行については不明[14]

出典[編集]

  1. ^ 大村亨 2022, p. 99-103,115-117.
  2. ^ 大村亨 2022, p. 29.
  3. ^ 大村亨 2022, p. 59-65.
  4. ^ 大村亨 2022, p. 164.
  5. ^ 大村亨 2022, p. 193.
  6. ^ 大村亨 2022, p. 35-36.
  7. ^ 大村亨 2022, p. 203.
  8. ^ 大村亨 2022, p. 236-240.
  9. ^ a b 大村亨 2022, p. 38.
  10. ^ ビートルズと60年代 1996, pp. 394–395.
  11. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 2000, pp. 350–352.
  12. ^ 大村亨 2022, p. 298-299.
  13. ^ 大村亨 2022, p. 302-305.
  14. ^ 大村亨 2022, p. 189.

参考文献[編集]

  • 大村亨 (2022). 「ビートルズ・ファン・クラブ」大全. シンコーミュージック・エンタテイメント. ISBN 978-4-401-65219-8