七条兼仲

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七条兼仲
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年(1582年
別名 孫次郎、求馬
氏族 七条氏
父母 父:七条敏仲
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七条 兼仲(しちじょう かねなか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将阿波国板野郡七条城主。

略歴[編集]

七条氏は阿波の国人阿波小笠原氏の支流で、三好氏・高志氏と同族である[1]

七条敏仲の子として誕生。生年は天文23年(1554年)との記録もあるが、父の没年(天文21年(1552年))と計算が合わないので誤記載と思われ、それ以前の生まれと推測される。

怪力無双の勇将として知られ、数々の合戦で武勇を馳せたという。天正10年(1582年)、中富川の戦い十河存保方に属して長宗我部元親と戦い戦死した。最期については、篭城中に戦死したとする説と、野戦で討ち死にしたとの二説がある。

逸話[編集]

徳島県には、大鏡餅(三方を含み約169kg)を抱えて、歩く距離を競う「力餅」という行事がある。これは、兼仲が戦に備えて力を授かろうと大山寺に祈願し、鏡餅を奉納したのが起源といわれており、400年の伝統をもつ。

脚注[編集]

  1. ^ ただし、東大史料編纂所所蔵の原蔵文書である「七条氏系図」、「七条氏家系考証」、「七条氏本支録」などの記載によると、鎌倉時代後期~南北朝時代初期あたりに、三好氏と共に分岐した同族の七条氏や高志氏が既に阿波に勃興しており、三好氏の先祖はその頃には阿波に入ったと述べており、三好氏の本姓は七条氏や高志氏と共に藤原氏とも久米氏とも称したという。