八菅神社
八菅神社 | |
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所在地 | 神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139[1] |
位置 | 北緯35度30分45.14秒 東経139度19分24.38秒 / 北緯35.5125389度 東経139.3234389度座標: 北緯35度30分45.14秒 東経139度19分24.38秒 / 北緯35.5125389度 東経139.3234389度 |
主祭神 | 国常立命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、誉田別命、金山毘古命、大己貴命、天忍穂耳命[1] |
社格等 | 郷社 |
別名 |
八菅山大権現 八菅山七社権現 八菅山 |
例祭 | 3月28日ほか[2] |
地図 |
八菅神社(はすげじんじゃ)は神奈川県愛甲郡愛川町八菅山にある神社。旧社格は郷社。
由緒[編集]
中世に遡る関東でも有数の修験道の霊場であったが、慶應4年/明治元年(1868年)の神仏判然令で、神仏分離が行われ、さらには廃仏毀釈によって、神仏習合の修験は解体され、明治以降は郷社八菅神社となった。この地を拠点とした八菅修験は、正応4年(1291年)に熊野長床衆が峯入り修行をした巨大な碑伝(八菅神社蔵)が残り、天文21年(1552年)には、京都の聖護院門跡の道増がこの地に入峯した記録が残る。貞享4年(1687年)には聖護院末の本山派修験となった。中世には八菅山の神は「八菅山大権現」として祀られた。近世に至り、八菅山七社権現となり[3]、熊野権現を中心に、蔵王、箱根、男山八幡、山王、白山、伊豆走湯の七社権現を祀り、別当寺の光勝寺のもとに、本坊24坊、脇坊22坊が奉仕する修験者の一山組織をなし、修験集落として栄えた。峯入り修行は、八菅山と大山の間の峰々をたどる修行で、春の峰は2月20日から4月8日まで、秋の峰は7月20日から9月8日まで、いずれも49日間であったが、弘治3年(1557年)に35日となり、秋の峰は永禄3年(1560年)に中絶した。しかし、春の峰は明治5年(1872年)まで継続した。明治5年の修験宗廃止令によって、修験集落八菅山は消滅した。山内に多数居住していた修験者は還俗し、山麓で帰農した。この際、宝喜院など有力な15の院坊は足立原姓を名乗った。「鬼の子孫」としての誇りを伝えたのである。春の例大祭では修験道時代の名残で「火渡り」が行われている。 八菅山の縁起は天明6年(1786年)、文化6年(1809年)、天保11年(1840年)の三本がある。これらはいずれも、大宝3年(703年)の役小角の開基を説く。天保本によれば、日本武尊が東征の砌に、この山を「蛇形山」と名付けた。その後、役小角が峯入り修行に入り、不動・薬師・地蔵の三体の像を刻んだ時に、池の中から白菅八茎が生ずる奇瑞が起こったので「八菅山」と名付けた。和銅2年(709年)に行基が勅願所として七社権現の寺を建立したという。縁起や伝承には様々な異説が伝えられている[4]。近世の八菅山については『新編相模國風土記稿』(天保12年(1841年))に詳しく記録されている。修験集落八菅山の全貌については愛川町による報告書が詳しい[5]。
境内及びその周辺[編集]
近隣の見所[編集]
交通機関[編集]
小田急電鉄小田原線本厚木駅より神奈川中央交通路線バス、厚59、厚60、厚64、厚66、厚96、海老名駅西口より神奈川中央交通海09に乗り、一本松バス停留所下車、徒歩20分
愛川町内循環バス中津西南部ルート、いこいの森入口停留所下車、徒歩6分
脚注[編集]
出典
- ^ a b 神奈川県神社庁
- ^ “イベント”. 愛川町観光協会. 2021年11月28日閲覧。
- ^ 「八菅山の修験道」『日光山と関東の修験道』1979年7月。481-494頁
- ^ 鈴木正崇「修験集落八菅山」鈴木正崇『山と神と人 山岳信仰と修験道の世界』1991年12月。148 - 151頁
- ^ 『修験集落八菅山』1978年。
- ^ 神奈川県の文化財
- ^ 國學院大學神社博物館事典
参考文献[編集]
- 慶應義塾大学宮家準研究室 編『修験集落八菅山』愛川町教育委員会、1978年。
- 宮家準、糸賀茂男 編『日光山と関東の修験道』 第8巻、名著出版〈山岳宗教史研究叢書〉、1979年7月。ISBN 9784626001955。
- 鈴木正崇『山と神と人 山岳信仰と修験道の世界』淡交社、1991年12月。ISBN 4473012069。
関連文献[編集]
- 「毛利庄 八菅村 八菅山権現社」『大日本地誌大系』 第38巻新編相模国風土記稿3巻之57村里部愛甲郡巻之4、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179219/118。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 八菅神社 - 神奈川県神社庁