多胡辰敬

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多胡 辰敬
多胡辰敬像(大田市円光寺蔵)
時代 戦国時代
生誕 明応6年(1497年
死没 永禄5年(1562年
別名 十郎左衛門尉
戒名 芳林善誉大居士
主君 尼子経久晴久義久
氏族 大江姓多胡氏
父母 父:多胡忠重もしくは多胡久秀
兄弟 辰敬正国片寄重明、女(尼子国久正室)
重盛、女(湯永綱正室、亀井茲矩母)
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多胡 辰敬(たご ときたか)は、戦国時代武将尼子氏の家臣。経久晴久義久の代まで仕えた。国久の三男尼子敬久の与力であったと思われる。

経歴[編集]

明応6年(1497年)、誕生。

出雲国戦国大名尼子氏に仕えて、天文9年(1540年)、吉田郡山城攻めに従軍したが毛利元就らによって撃退された。

天文12年(1543年)には、鰐淵寺造営を行って鰐淵寺領の掟を定め、晴久の命を伝えている。この後石見銀山を守る要衝であり、尼子水軍の根拠地で貿易港でもあった刺鹿の地にある刺鹿岩山城主(島根県大田市久手町刺鹿)となった。

天文23年(1554年)の元旦に月山富田城内で連歌師宗養を招いた際に歌を読んだ事が『多胡文書』に伝わっている。

永禄元年(1558年)、毛利元就は川本温湯城小笠原長雄を攻撃した。この事態を打開するために晴久は辰敬らを含めた援軍を派遣したが、温湯城は降伏し、長雄は毛利氏に従ったため、援軍は失敗に終わった。

永禄5年(1562年)、毛利氏の石見国侵攻が開始され、辰敬の居城・石見国刺鹿岩山城(支城の余勢城とも)にも毛利軍が侵攻、辰敬は奮戦するも城は落ちて自刃した。

人物[編集]

多胡辰敬は軍事にも政治にも通じ、連歌を嗜むなど教養豊かであった。諸芸十七箇条からなる『多胡家家訓』を記しており、自身もその家訓を一生に渡って実践し続けていた。