梁 (春秋)

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国姓 嬴姓中国語版[1]
爵位 [2]
国都 梁(陝西省渭南市韓城市の南)
分封者 周の平王
始祖 嬴康
滅亡原因 穆公により滅亡
史書の記載春秋左氏伝』(始見は桓公九年)
周朝諸侯国一覧
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(りょう)は、春秋時代嬴姓諸侯国。同族のに隣接し、秦の穆公により滅亡した。平王により秦仲の子の公子康を夏陽の梁山(現在の陝西省渭南市韓城市の南)に封じられたことに始まった[3][4][5]

歴史[編集]

紀元前822年、秦仲は西戎との戦いで戦死した。平王即位後、秦仲の功が認められ、秦仲の子の嬴康が梁伯に封じられ、夏陽の梁山(現在の陝西省渭南市韓城市の南)に梁を建国した[3][4][5]

紀元前703年中国語版・梁・中国語版の五国の君主が曲沃武公(後の晋の武公)を討伐した[2]

紀元前654年、晋の公子夷吾(後の恵公)は梁に出奔した[6]。梁伯は梁嬴を公子夷吾に嫁がせ[1]懐公が産まれた。

紀元前642年、梁伯は城邑の建設が好きで、新しく城邑を建設したが、秦に奪取された[7]

紀元前641年、梁は同族である秦の穆公により滅亡した。『春秋左氏伝』によると梁の民は梁伯の役使に堪えれず、秦に服属したとある[8]

脚注[編集]

注釈[編集]

引用[編集]

  1. ^ a b 楊伯峻:《春秋左伝注・僖公十七年》,中華書局1990年5月第2版,第372頁。
  2. ^ a b 楊伯峻:《春秋左伝注・桓公九年》,中華書局1990年5月第2版,第126頁。
  3. ^ a b 元和姓纂』巻五・十陽・梁:秦仲有功,周平王封其少子康于夏陽梁山,是為梁伯。
  4. ^ a b 通志二十略』氏族略第二:梁氏:嬴姓,伯爵,伯益之後。秦仲有功,周平王封其少子康于夏陽梁山。
  5. ^ a b 広韻』:本自秦仲,周平王封其少子康于夏陽梁山,是為梁伯,後為秦併。子孫奔晋,以国為氏。
  6. ^ 楊伯峻:《春秋左伝注・僖公六年》,中華書局1990年5月第2版,第313頁。
  7. ^ 楊伯峻:《春秋左伝注・僖公十八年》,中華書局1990年5月第2版,第379頁。
  8. ^ 楊伯峻:《春秋左伝注・僖公十九年》,中華書局1990年5月第2版,第384頁。