阿薫

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阿薫(おくん、正徳5年3月16日1715年4月19日) - 安永9年11月8日1780年12月3日))は、江戸時代の尾張藩徳川宗春側室。別名に和泉(いづみ)、芳負禅定尼、宝泉院、華子。


経歴[編集]

宗春が元文4年(1739年)1月に幕命により強制隠居させられ蟄居処分となった後、明和元年10月8日(1764年11月1日)に死去するまで、共に暮らした唯一の側室であるとされる。(『金府紀較抄』)[1]

死後には『阿薫和歌集』[2]八冊十八巻が編まれた。


以下は『阿薫和歌集』の編者伊藤将親の筆に拠る。

享保17年(1732年)年10月、徳川宗春の側室となった。父は猪甘宗貞。母は鈴木氏。猪甘氏は近江の出で、織田豊臣の家臣だったが後は都で代々浪人だった。容貌優れて、徳があり、きらりと光るものがある。宗春が藩主であった時から末期まで側にあり、夫人としての務めを果たした。宗勝は特にその労を賞で正室同様に遇した。宗睦も同じく厚遇した。 上冷泉家冷泉為村為泰父子によって添削された和歌4千200首が死後に編纂され、『阿薫和歌集』として伝わる。

異説[編集]

阿薫が宗春の側室となった同月に吉子内親王が出家したこと、乾御殿が造営されたこと、『阿薫和歌集』序文の解読などから阿薫が霊元天皇(霊元法皇)第13皇女の吉子内親王本人である、とする説[3]がある。

内親王は正徳4年8月22日(1714年9月30日)に産まれ、翌年に江戸幕府征夷大将軍徳川家継の婚約者と定められたが、家継が7歳で早世したため3歳で将軍の後家となった。享保17年10月29日(1732年12月16日)、父法皇の死後二月で18歳で出家し、45歳で死去したとされている。また、霊元法皇は反幕府的な言動で知られる。吉子内親王は霊元法皇の譲位後の子であり、母の身分が比較的低いため(中宮や女御ではない)、慣例としては女王とされるところを、親王宣下され内親王となっている。この措置は、法皇は将軍の後家として出家させるつもりはなく、どこか高い身分の家に嫁がせる算段であり、そのために身分を一段上げたのではないか、とも推測される。

阿薫の父は浪人であったはずなのだが、阿薫は幼少期より冷泉家から和歌を学んでいる。

脚注[編集]

  1. ^ おはる(お春の方)という側室も確認される。元は江戸吉原遊廓の太夫春日野、名古屋藩士鈴木庄兵衛の娘、ということになっている。
  2. ^ 鶴舞図書館河村文庫には河村秀根による写本。蓬左文庫には蟹江慶次郎旧蔵書と河村文庫本の写本がある。
  3. ^ 大野健「徳川宗春側室阿薫の出自」『郷土文化』第74巻第1号(通巻232号)ISSN0288-2841