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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/三条通り 20190914

三条通り - ノート[編集]

選考終了日時:2019年9月27日 (金) 22:53 (UTC)2019年10月11日 (金) 22:53 (UTC)

  • 賛成 :推薦者票--運動会プロテインパワー会話2019年9月13日 (金) 22:53 (UTC)[返信]
  • (コメント)文中、『春日大社一の鳥居交差点・JR奈良駅前交差点の区間』とありますが、グーグルのストリートビューで確認するとこの『春日大社一の鳥居交差点』が『一の鳥居前』交叉点となっています。『前』がいるのかいらないのか、どちらが正しいのでしょうか(問題のストリートビュー)。
  • さて、『角川』を見てみましたが、ウィキペディアの記事のような『春日大社一の鳥居交差点・JR奈良駅前交差点の区間を指す』ことははっきりとは読み取れませんでした。まづ同事典は三条通を三条大路を継承し旧奈良市街を東西に通ずる目抜き通りであると定義します。旧奈良市街地を東西に通ずる部分だけを見れば『春日大社一の鳥居交差点・JR奈良駅前交差点の区間を指す』としても誤りではないのかもしれませんが、事典はつぎに地誌『奈良曝』を引用し、『たる井町……此通西まてを三条通と云,大阪よりの海道なり』としています。これは、三条通は大阪に通じ奈良の樽井町まで来てますよ、という解釈でいいでしょうか。続いて事典は奈良街道(暗峠街道)の説明をし、暗にですが、三条通はこの大阪に通ずる暗峠街道に接続すると説明します。
  • さて、市道三条線と三条通がきっちりイコールで結ばれるのならそういうウィキペディアの記事の通りの定義でいいでしょうが、その根拠はどこに? そうでないならこれは市道三条線についての記事なのでは? ネット上の地図をいくつか確認すると、記事文中に『JR奈良駅前交差点より西に向かう市道三条菅原線のうち、尼ヶ辻までの区間についても慣用的に三条通り、三条道路と呼ばれる』とある様に駅前から西も(少なくとも三条大路二丁目まで)三条通である風に記載されており、なかなか三条通の定義は難しそうだなあと。--Mobnoboka会話2019年9月18日 (水) 04:23 (UTC)[返信]
    • (コメント)まずご評価くださった運動会プロテインパワー氏に感謝します。蚊帳は奈良の名産品なれど選考の是非は我蚊帳の外でございまして、さりとて解説は編集者でなければ難しかろうため、以下は記事内容に関してMobnoboka氏のご説明申し上げるものです。一の鳥居交差点に関して確かに前が抜けております。訂正しご指摘感謝いたします。
    • 三条通りの範囲に関して、『角川』を引用なされた点につきまして同519ページに「三条口」の項目があります。「奈良の西口に当たり、下三条郷・上三条郷を経て」とあり、角川では三条通りの東は樽井、西口は三条口とします。三条口とはどこに当たるか、他の文献では『奈良市史 通史三』p.62によると高札場が立つ「町のおもな出入り口」として「下三条口」を挙げ、『奈良市史 地理編』p.282で江戸時代に当時の「奈良七口」に「三条通り」が挙げられ、同p.275で文久年間に建てられた石灯篭の話と関連して国鉄奈良駅北側踏切辺りが三条通りと大阪街道の境目であると扱っております。下三条町から現在のJR奈良駅北側まで開きはございますがその辺りであった様です。現在はJR奈良駅前交差点から東側が市道三条線や春日参道三条通りの区域です。角川については『中心市街地を東西に走る」点について情報源としております。
    • 青山茂著『奈良の街道筋 上』p.146によれば三条通りは一の鳥居までと読み取れ、『奈良と伊勢街道』p.124によれば京街道の話として、一の鳥居前で三条通りと交差すると読み取れます。市民情報紙でも2009年5月の『ならしみんだより』に一の鳥居前交差点が三条通りの範囲に含まれており、興福寺の扱いも同様です。私はこれらの情報から三条通りの東は一の鳥居であると認識しており、よって当記事は現在の三条通りを一の鳥居からJR駅前間の、結果的に市道三条線と重複する区間となっております。
    • 三条通りは過去に国道県道の時代を経て現在は確かに市道ですが、いつ区域変更されたかを官報等に調査結果を求めた事実を結果として記したもので、以上の事情から市道三条線の記事を書いた・目標としたものでなく、また以西の区間についても巷間三条通りと呼ぶ場合が見られるためにその旨を記載し、その区間が現在何かを調べて市道三条菅原線と呼ぶと知ったに過ぎません。記事内に記した文献が三条通りとして扱うのは一の鳥居・JR奈良駅前交差点間、市民が三条通りとしてたまに扱う場合があるのは三条大路5丁目交差点辺りまで(しみんだより等の用例による)との回答、および記事構成になります。
    • 『奈良の街道筋 上』と興福寺以外は過去に記事内に示した文献でご確認いただけるかと存じます。今後も当記事内容の改善に努めようと存じますが、無作法にて対応しかねる場合があること予めご了承ください。--2400:416A:1B8C:D700:CFF:80FF:33F4:81F4 2019年9月18日 (水) 09:56 (UTC)[返信]
      • (コメント)奈良県民でない故、的外れのコメントであればお許しください。詳細な解説ありがとうございます。記事中にも反映されるとより一層充実することと存じます。
      • すぐに参照できた『角川』のみを見て云々言うのは良くないですが、西で大坂街道?奈良街道?暗峠街道?とつながっているというのはこの事典のこの項目で繰返し説明されていることであり、またこの三条通が主要路たることを指しており、概要のところでも書いておく重要な点ではないかと思います。沿道節のみで『三条通りは暗越奈良街道へと続き、鉄道開通まで大坂と奈良を繋ぐ要路であった』と解説されるのは不足ではないか。
      • 暗越奈良街道において三条通を含んで解説しているところは正解?不正解? この奈良街道は三条通を含む?含まない?
      • あとさらにさらに些細な点ですが、『三条通』なのか送り假名を付けて『三条通り』なのか……という点は全く重要ではないし私もどうだっていいんですけど、三条通三条通りで京と奈良別の物を指す現状はそういう使い分けする根拠はあるのかなあと気になりました。京都の方は慣習として送らないんだろうなあとはなんとなく。奈良の方が送る送らないが決まってないなら京奈良どちらかがもしくはどちらもが曖昧さ回避の括弧を付けてもしょうがないのでは。と思ったのはこの『角川』で『三条通』の名で立項されていたので……。--Mobnoboka会話2019年9月19日 (木) 13:40 (UTC)[返信]
        • (コメント)扱った文献によれば暗越奈良街道の始点は南都または平城京となっております。奈良時代の平城京三条大路は都城西端の四坊大路と現在の奈良市宝来町付近で交差しておりますが、上田正昭著『探訪 古代の道1』p.219によれば、奈良時代に都から西進し暗峠へ向かう道が作られたけれども、起点は南の羅城門に繋げられていた可能性に言及しております。都城が荒廃し室町時代の頃には奈良町の七口に三条口が挙げられ、『角川』p.519の三条通には「下三条口を起点とする奈良街道(暗峠街道)」と記されております。平凡社『奈良県の地名』p.534「下三条町・下三条東町・下三条西町・三条新屋敷町」によれば、享保年間『奈良坊目拙解』の解説として下三条の西に「奈良の西総門」が設けられて暗越奈良街道に繋がっていた様です。江戸時代には下三条など興福寺の知行地が奈良町に組み入れられ町域拡張したので、JR奈良駅北側踏切にあった(現在は交差点前へ移設)石燈籠の話だと文久年間の頃までに町の入口が西に移ったのでしょう。暗越奈良街道の内容は示されていたぎょうせい『日本の道100選新版』pp.144-145によれば、同街道のうち奈良県内区間のみを扱っており、奈良市三条町から生駒市西畑としておりました。結果、本項は三条通りを暗越奈良街道に含まない・今日見られる広義の三条通りとは重複する区間がある構成と致しました。
        • 本項はまず現在の三条通りとは何かを伝えることを主目的とし冒頭文・概要節を置き、路線節で道路記事に必要な路線情報をまとめ、沿道節に明治期以前の歴史を内包致しました。店舗名を並列していた沿道節を活用する手立てを思案しつつ、三条通りだけを扱う文献・情報が少なく歴史節の新設分離が難しい事情から、歴史的背景・歴史的建造物を中心に東西順に記述した構成と致しました。暗峠奈良街道もさりながら伊勢参りの京街道・上街道も同程度主要な街道でございまして、現代の三条通りと明治以前の歴史を分けて記述した方がより理解促進に繋がるのではなかろうかと愚考し同節に組み入れて、街の中心地と時代の移ろいを記述する構成と致しました。
        • 通り・通の用例(一例奈良市建設部道路建設課 奈良市 三条通地区地区計画)は分かれておりますが、三条とおりは三条の大体凡そあの辺の道を指した古来からある庶民の愛称呼称のような何かで通りも通もあるがよく分からないが構わない、提案の結果が何かを全く保証できそうにない・・・が正直な雑感でございまして、何年か頂きましても恐らく私に分かりそうにないとお答えする他手立てがなく申し訳ございません。--2400:416A:1B8C:D700:65BA:941E:57F9:DBA0 2019年9月21日 (土) 01:39 (UTC)[返信]
  • 賛成 かなり悩ましいのですが、主題的には追加で書けることはあまりないであろうと予想するので賛成で投票します。本来は歴史や交通量のデータ、交通路としての位置づけなどが独立した節としてあるべきだと思いますが、この規模の通りだとあまりそうしたデータも存在しないだろうと思われます。個人的に、現状記事本文末尾にある地図はもう少し最初の方で見たいと感じます。こういう記事の場合、路線などの情報はどれほど精細な文章よりも地図一枚の方がわかりやすいと思うので、先に地図を見てから解説に移った方が読者としては理解しやすいと思います。--TEN会話2019年9月27日 (金) 15:59 (UTC)[返信]
    • (コメント)ご評価くださりありがとうございます。地図配置につきまして路線節を検討しておりましたが、一つには外部地図自体の出来でございまして、各所の地名表記や表示位置がGoogleやゼンリンほど精密なものでない点に難がありました。極力補足した上で掲載しておるのですが、地名の表記が足りない・・・、東向「き」商店街の誤表記が直らない、今辻子町の位置が良くない等ございまして、全く載せないよりもあった方が良いかと考えた末に内容理解のためおまけ・巻末図表の扱いにしておりました。二点目は最近気づいた内容でございますがWikipedia:バグの報告を上げさせていただいた件でして、スマートフォン・モバイルビューで確認しておる時に地図表示の具合がおかしくなっておりました。本項以外にも及んでいる様子で私にどうにも分からずこれが報告にお任せしております。状況進展次第となりますが種々改善に努めようと存じます。--2400:416A:1B8C:D700:7433:8058:539D:45D1 2019年9月28日 (土) 12:01 (UTC)[返信]
  • コメント 選考終了時点で賛成2票のため、選考期間が2週間自動延長となります。--Tam0031会話2019年9月28日 (土) 16:27 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成2票のため、今回は見送りとなります--運動会プロテインパワー会話2019年10月14日 (月) 01:51 (UTC)[返信]